あわくらのくらし・百姓

コラム「あわくらのくらし・百姓」について
小松展之さんは還暦になってから故郷の中国山地で百姓のくらしを始めました。その16年をふりかえった体験記です。
vol.1 vol.2

あわくら通信読者様

 「あわくら」を離れて5年が経ちました。
 私たち夫婦共、年なりの健康を保って、思いのままくらせたという限りにおいては、この5年間、平穏な日々であったと思っています。
 あわくらの15年を「むら私論」として整理する日課は、カタツムリの歩みですが続けております。
 自らが傘寿を迎えると、高齢者問題は切実な課題として目の前を去来します。昨年から、近所の高齢者同士の集まりを持ったりしております。この様な中で「あわくら」での高齢者にかかわる小さな試みの部分を小冊子にしました。
 高齢者自らが行動を起こすことの難しさの呟きです。

江南にて 小松展之

まえがき

 私は、1989年11月から2005年3月までの15年4ヶ月を岡山の山村「あわくら」でくらしました。このむらで米を作り、野菜を育て、それを食べるという自給自足のくらし、そしてむらとの付き合いをしてきました。
 田舎くらしでは、日々のくらしの中で地域との付き合いを大事にしなければなりません。農作物を作って食べるという百姓のくらしは、快適なものです。そして、一歩、外に目を向けるとむらの様々なくらしがあります。この、むらの様々なくらしのあり様が田舎くらしなのです。
 私は、田舎くらしをする中で、私自身が「被験者」として実験材料となり、そして、また観察者としてくらしたようで、その体験を「あわくら通信」として発行してきました。
 今、埼玉の「江南」でくらすようになって、あわくら16年の被験者としての体験を「むら私論 第1部」として記録し、あわくら通信(第14〜32号)として発行しました。
 このなかで、「限界集落」といわれる高齢者むらにくらして、高齢者のあり様を、体験の中での一つとして試みた事項を纏めた章(あわくら通信第23〜26)を小冊子にしました。
 この体験は、このむらにくらす被験者にとっての実証材料です。その内側にいて自らの問題として、高齢高齢者としてどうくらすか、高齢高齢者にとっては、1年1年がどのようなものであるか、厳しい現実があります。
 私が関わり、お付き合いした方々は、5年後の今日、今おられるのは御二人だけで、夫々、高齢者施設でくらしておられます。私自身が、高齢高齢者の1人になって1年1年をどう生きるか、残された年月を考えるようになっております。

2010年2月 小松展之
小松展之『これからの「むら」への試み』(2010年3月30日発行)から

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先達会ができたこと

 このむらは、中国山地稜線下の谷筋の小さな集落で、戸数21戸、平均水田面積43aと規模も小さく、全戸が兼業農家である。1960年代から青壮年は姫路、阪神まで働きに出るようになり、昼間は高齢者、子供という暮らしぶりになってから久しかった。
 1989年に定年帰農した目には、昼間のこのむらは、実に静かで、静寂そのものであった。高齢者率が40%になろうとしていた。こんな中で、日々、気になっていたのはSさん、Kさん、Oさんのことであった。3人とも90歳前後、夫々、連れあいを亡くし、家族とは同居であったが、孤独という感じであった。
 Sさんは、2年前に奥さんを亡くし、息子夫婦、孫が、朝、仕事、学校に出かけると、昼間は全くの1人ぐらし、夕方になると、庭先に1人ポツンと座っているのが目についていた。
 Kさんは、40年近く前にご亭主を亡くし、長男は成人して結婚していたが、残された子供達を育て、このむら1番の山持ちとして山林、田畑の管理をしてきており、80歳を過ぎても、毎日、朝から晩、暗くなるまで野良仕事をする働き者のおばあさんである。野良で会うと、よく話し掛けて、孤独な感じであった。
 Oさんは、若い時から働き者で、持ち山の植林・下刈り・枝打ち等の育成管理をしてきたが、晩年足が不自由になり、歩けなくなったが、それでも、手押し車で畑に出て仕事をしていた。働けなくなってからは、手押し車で散歩して、会う人と良く話しをした。何となく、人恋しい感じであった。
 高齢者の多いこのむらで、昼間の一人暮らしは、精神的に不安と孤独感を強くしているように見えた。この様な時に、村教育委員会が、1991年から各地区に生涯学習推進委員を選任して、事業として生涯学習を進めようとしていた。
 1994年に、このむら(地区)の推進委員に選任されて、前述のような高齢者の多いこのむらの状況から、生涯学習活動と老人会活動を結び付けようと、1994年11月に開催された老人会の総会で生涯学習の意義と老人会の活動で目指すものについて提案、話し合いの結果、定例的な会合を持とうということになった。
 老人会として、この会合のあり方を協議した結果、次のような運営をしようということになった。
 @ 会合は、毎月15日、午前10時から午後3時まで。
 A 場所は、このむらの公会堂。
 B お互いの話し合いの場として、年齢制限しないで、集まりたい人が自由に集る。
 C 世話役は老人会役員であるが、当面、運営実務は、生涯学習推進委員が担当する。
 こうした動きの中から発足した集まりが「先達会」であった。

小松展之『これからの「むら」への試み』(2010年3月30日発行)から

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むらの昼間(1993.3)

 私の家は、このむらの中央部のむらをほぼ見渡せる高いところにある。ところが、春夏秋冬を通じて、昼間、戸外にほとんど人影を見ることがない。実に、ひっそりとしている。わずかに田植期と稲の収穫期に若干のザワメキを観ずる程度である。
 子供は、幼児2人、小学生2人、中学生3人、在宅高校生は居ない。成年男女は、皆、働きに出かけ、老人も体の動くかぎり、内職に精をだしている。
 稲は作っても、自給用の野菜、果樹は従来からのものを一通りは作付けするが、積極的に作ることはない。
 体の動く高齢者は、山の手入れにいく。洗濯ものが干してあるから、人のくらしがあるという感じで、正月お盆にも人々の賑わいという感じがない。(あわくら通信第4号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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時代を先取りしたむら・・・高齢化社会(1993.3)

 村社会福祉協議会の資料によると、1992年10月で、この村の人々の65才以上の人の比率は25%(ちなみに、岡山県は15%、全国は12%)、このむらは39%である。これは、我が国の平均的状況からは30年以上も先行しているようである。
 事実、高齢者2人暮し、あるいは跡取りが既に60才代という家もある。働き手は阪神方面にでて家庭をもっている人が多く、岡山、広島方面よりは、大阪、神戸、姫路との交流の多いところである。
 むらで生まれ育って、都会へ出た人にとっては、このむらは[田舎]であるが、次世代(孫)になると、はたして、「田舎」でありうるか、難しいところであろう。
 私のように、新住民に近い状況で移り住んでみると、後継者が同居していない「むらのくらし」が目につく。親から子へと代々、引き継がれるのが当たり前であった田畑山林が、次世代まで継承されるのだろうか。山の頂まで植林された杉、桧の維持管理が可能なのだろうか。
 何か、従来からのむらのくらしを支えていた基準(座標)を変えて考えてみる必要が生まれているように思える。
 かつて、農業のために、お互いが協力(結)しあった時代は、過去になってしまっているが、当時の名残のような、いろいろなむらの行事が慣行として、細々と続けられている。
 時代とともに、個の暮らしが優先するようになり、むらの行事が慣行化したのであるが、改めて、むらの行事に新しい光をあてて、高齢者が50%を超えるようなこのむらに、新しい息吹を与える行事とする時期にあるように思う。(あわくら通信第4号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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隠居できない高齢者(1994.4)

 世帯数20戸のこのむらで、私は世帯主の若い方から5番目である。60才を過ぎた世帯主が皆、頑張っている。みんな良く働く。山村が、独自の「くらし」のあった時代であれば、すでに、隠居して息子の監督、手伝い、子守、渉外が仕事であったものが、いまだに現役である。
 サラリーマンであれば、60才で定年、第2の人生といわれるが、それがない。セッセセッセと山の手入れをして、田畑の管理をして財産を守る。立派だと思うとともに、何故、こうまで身を粉にするように働くのかとも思う。サラリーマンであった人が、一定の年齢に達したら、今までの蓄積を基礎に生活するように、くらしにゆとりを持ってよいのではないか。跡取りは家を離れて働いているのであるが、子や孫に対する思いが、都市とは違っているように思う。(あわくら通信第5号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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活性化ということ(1994.4)

 何かというと活性化という言葉が使われる。中身が曖昧なままに。山村では、若者の定着ということもいわれる。一種の無いものねだりに思える。我が村で、若者の居場所とすると役場、農協、森林組合、郵便局、村公社それに若干の事業所とみてよい。
 戸数500戸の中から、何人の若者が働けるか、せいぜい100人というところか。そうすると、8割方は若い人の居ない家という事になる。やがて、空き家が目立つということになりかねない。村ではセカンドハウス構想を打ち出しているが、そうでなくて、高齢者定住対策をもっと進めてもよいと思う。
 京阪神地区を対象に、定年後の高齢者に呼び掛け、定住をはかれば、質の違った村の活性化が生まれよう。(あわくら通信第5号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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部落(むら)の中が崩れはじめた(1995)

 田舎は、都市に比べて、農業生産という自然を相手に、多くの労力を必要とする生産の形から、日常の中で協同があり、様々なくらしの結びつきから、集落の中が、一つの纏りを持ち、影響しあう関係にあった。
 これを「むら」といっており、古くは10数戸から数10戸の単位で、庄屋一戸長の下にまとまっていた。これが、現在の部落という単位になっている。
 これが1960年代後半から基幹になる労働力の人達が農外就労の形で流出を始め、次第に通勤から離家就労に変わり、住民の数が減り、残った人達も日中は留守というようになった。
 むらの中で男子が顔を合わせるのは、葬祭のときだけというようになった。

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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基準(座標軸)ということ(1995.3)

 阪神大震災の罹災者の人達が、テントで協同の暮らしをしている姿がTVでドキュメント風に報道された。このテント生活を「テント村」と呼んでいた。「村」は、本来、共同体の単位として、率直に受け入れられる言葉なのであろう。
 本当の村はどうだろう。共同体の単位として認知されているのだろうか。マスコミなど外部からは「永田村」という様に、閉鎖的で外からの情報、交流を拒むという悪いイメージで揶揄的に語られる場合が多い。
 人のくらしの中での協同の基準(座標軸)は時代の中で動くものと思う。ところが、山間地では、外からの情報が入りにくく、どうしても、経験第一になる。丁度、列車に乗っていて、中だけ見ていると、列車が相当なスピードで動いていることを感じないように、「村」の中だけに目をむけていると、大きな世の動きが届かない。その結果、くらしの基準に外と大きな差異が生まれる。
 今、山間地対策として、いろいろと行政対策がなされているが、対策を打ち出す側と受け取る側との差異が大きい。また、基準のズレも大きい。このことに気付いて欲しい。(あわくら通信第6号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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手紙(2010年12月3日)

 厳しい真夏日の連続に悩まされた日々の印象が消えない内に、師走を迎えてしまいました。
 昨今の報道を見聞きしていると、異状は気象だけでなく社会と地球規模の問題でもあり理解と判断の枠を越えてしまった思いがしております。(中略)
 むら私論・あわくらの記録も第2部の「稲をつくる」で一先ず止めて第3部のノートつくりを始めたところです。
 傘寿という歳を迎えてみて、個人の記録への拘りをあらためて感じているところです。現役の頃、周辺で養蚕が消え始め農家での養蚕技術が消滅していく様をみて農家個人の技術が完全に消滅してしまうと思ったものですが、あわくらでは山の管理(杉・檜育成)技術の消滅でした。
 わたしのあわくらの体験は個人の道楽・趣味のものですが、こうゆうものでも記録は記録であろうと纏めているところです。むらむらの小さな記録がセンター的なところに集められ、整理されてむらの農業技術論であれ農業史であれ纏められる機能があればという思いはあります。
 山村の現状から見ると、何時の日かと言う段階は過ぎていて、あらゆるものが消滅崩壊に近づいていると思っています。農家個別所得補償制度、TPPに絡んで若干議論が聞こえてきますが、日本の農業という大枠議論だけで流されてしまうように見えます。今こそ各学会に頑張ってもらいたいものです。
 あわくら通信第39号、第40号を御送りします。ご笑覧下さい。

小松展之

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稲との関わり

 稲を作るということを、種を播いて刈り取りをして米にして食べると単純に云うことはできない。その過程での一定の手順、即ち栽培管理が必要である。
 私は、このむらで生まれ百姓の息子として国民学校初等科終了まで暮らしたので、一通りのことは子供なりに見ており、苗取り田植などを手伝ってきた。
 学生として、農学を学び、社会人として農林省農業技術研究所において稲作収量の成立過程の解析研究の一端に関わることで稲体の生育・発育についての知見を得ることができ、富山県の農協の現場で地区の様々な立地条件での稲の収量を高める技術対策に講じ、更に、埼玉県農協連の技術担当職員として県内の稲作安定と収量500kgどり対策等で現場技術に関わってきた。
 こうして、社会生活の出発から60歳で中国山地の「あわくら」で百姓を始めるまで何らかの形で稲と関わってきた。百姓をすること、稲を作ることには何の不安も躊躇もなかった。稲作技術について知識としては十分に会得しているという自覚があった。
 しかしながら、百姓として自らが苗を作り、田植をし、生育管理をして、収穫・調整そして食べるということは、全く初仕事であった。
 この様な経緯の中で1990年「あわくら」での私の稲作は始まった。

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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あわくらの「むら」の稲作立地

 1990年から2003年まで14作の稲作りをした。14年という年月は、365日×14年=5,110日+3日=5,113日である。この驚く程の日数のなかで14作(14作×180日=2,520日)なのである。
 確かに、1作に180日:6ヶ月の月日が懸かるが、この間は稲の生育に合わせた1日1日が初体験である。この様な稲作経過の中で体験させられたのは、稲作管理技術を超えての稲の生育を支配する自然条件すなわち立地である。
 わが稲作の場である田んぼの状況を説明しておこうと思う。
(1) 地形 このむらは、古来、百の谷を持つといわれ、周囲を標高600〜800mの山に囲まれ、山間に幾条もの谷のある総面積700haのなかに耕地が7haほどの小さなむらである。従って、南北谷と東西谷では耕地の日照は全く違う。
 我が家の水田の奥田という地名のところは、南北谷で日照は真夏で9時頃から15時頃までで、前田は東南に開けているがそれでも日照は7時頃から17時頃までである。これでも平場から見ると夏場の日照時間が極めて少ない。
(2) 土質 この地方の耕地は花崗岩が母材で、このむらの各所で良質の「真砂土」がとれ、稲苗つくりの際の培土にわざわざ遠地から採取に来るほどの花崗岩土壌である。
 この様な花崗岩土壌の水田に水田基盤整備事業が導入され、従来の1筆3〜5a程度の棚田を整備、埋め立てをして1筆10a程度(実際は6〜12a)の水田に耕地整理して、1982年に事業が完成した。
 作土は埋め戻してはいるが土性が変わって礫の多い砂壌土になっている。基盤整備後8年しか経過しておらず、水田の水持ちは極めて悪く、朝完全に湛水しても翌朝には田面が出ている状態である。
(3) 気候 中国山脈の南側に属するが、山脈の稜線直下であり、天候は平地が晴れても曇・小雨という山陰型である。山の中のむらであり真夏の最高気温でも30度を越えることは珍しい。11月に入るとキタゲ(時雨)がはじまり、木枯らしが吹いて山が鳴る。冬は最低気温が氷点下20度に下がることもあるし、降雪期は12月から3月までである。
 ちなみに、百姓が本格的に始まる4月上旬の気温は、隣村の大原町古町で最高15度、最低3度で田植の始まる5月上旬でも最高22度、最低8度であるが、このむらは古町よりは1〜2度低いとみてよい。
(4) 水温 山間の谷条のむらであるから川の水温は夏でも低く、用水の温度は真夏でも10度〜12度程度、水口を空けて掛け流しにすると水口の周りの稲は青立ちする。慣行的に水口から畦沿いに導水溝を20〜30m作って青立ちを防いでいる。我が家の場合は、毎朝水口を空けて1時間ぐらい水を入れ湛水して完全に水口を閉めて青立ちを防いだ。
(5) 水田の形状 このむらの水田は、元々1筆3〜5a程度の棚田であったが、水田基盤整備事業により1筆10a前後の水田に耕地整理をおこなった。我が家の場合、台帳の水田面積は10a、9a、9aの3筆である。
 問題は夫々の水田の畦畔率(台帳面積−水張面積)/台帳面積 である。3筆が27.6%、37.1%、33.9%になっていて、平均すると32.7%である。
 このことを1筆10aの水田の畦畔率33%として試算してみる。棚田の場合、4面のうち1面は農道に接しており、1面は上側の水田の畦畔となり法面は残る2面である。
 この様な設定で畦畔率33%の水田の畦畔幅を計算すると約5mとなる。この水田の法面の勾配を15/10とし、畦幅を0.5mとすると、畦畔の高さは7m位となる。そして、法の実長は9mにもなる。
 この勾配15/10、畦畔高7m、法長9mが、畦畔の草刈をするときの実際の草刈面積である。この様に、水田10a(水張面積6.7a)の草刈面積は6aである。稲の作付面積の90%に相当する面積の草を年間3回は刈取るのである。
 山間のむらの稲つくりは、平地と比べると、その立地から比べようもない労働力を必要とする地形・土質・気候・水温・水田形状の中で行なうのである。そしてこれを支えている百姓は限界集落といわれる中での高齢者である。

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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稲作条件

 稲を作るということは、苗を作る、田を耕起する、田植をする、生育管理する、稲刈する、乾燥調整・籾摺する、精米することである。こうして初めて米・御飯として食べられるのである。
 自産・自消はこれらの稲作工程を全て自前で行なうことになる。残念ながら、僅か20aの水田を自作しようとする私には不可能である。
 今の稲つくりにはそれなりの道具立てが必要である。苗つくりの播種機・加温出芽機・育苗ハウスに始まって、耕耘・代掻き・田植にトラックター・田植機、刈り取りにコンバインハーベスター、乾燥調整に穀物乾燥調整機そして籾摺調整機である。これらを整備するには1,000万円以上の資金を必要とする。
 実際には 1)共同作業、2)委託作業、3)自律作業の3種の作業の組み合わせで稲作を行なった。
(1) 共同作業 このむらで百姓を始める1990年2月、隣人との話の中で苗つくりを共同作業で行なうことになった。彼は元教師で定年後に百姓専業になったが稲作については「隣百姓」であった。
 稲作に必要な機械類一式は設備していたので苗作り機材は共同で使うこととし、私が、苗つくりの技術は知識として提供することとした。1990年から1998年まで続けた、1999年は統一地方選挙があり選挙管理委員長であったため共同作業が出来ず、農協育苗センターから購入した。以後購入苗を使うことになった。
(2) 委託作業 耕耘から収穫調整にいたる大型機械は設備不可能、筏津農作業組合に全面委託作業とした。実際的には、細かい作業調整が出来ないため作業時期(田植期・刈り取り期)、田植作業(栽植密度・田植精度)、刈り取り作業に不十分な点がでた。
(3) 自律作業 大型の機械・施設の必要とする分野は共同、委託作業としたなかでの稲作は、自律的に出来る稲作は生育管理であった。
 育苗・田植から出穂までの管理・出穂後管理である。

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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山のむらでの稲つくり14年 (1)

 このむらで百姓として稲を作るにあたって「自然の循環系の中の農業生産」と位置付けて出発した。然しながら、具体的な設計もプログラムも持ち合わせてはいなかった。ただ、「無農薬・無除草剤」が条件であった。
 既に触れたように知識としての稲作技術は十分に持ち合わせている自覚はあった。この知識としての稲作技術の実証が当面の稲作の課題でもある。この課題がどのように具体的に現れたか見てみよう。
 稲籾を播き、苗を作って田植、収穫そして収穫した米を食べる。この作業の終点は米の収量である。
 (「稲作収量の経過」の表は省略)
 こうした収量の経過を見ると、中々一筋縄にはいっていない。稲作の経験が年を追って生きているとは言えない。1990年からの3ヶ年と2001年からの3ヶ年の収量で見る限り何の成長も見られない。これが、山村の稲つくりであろう。
 収量を規制しているものは、まず天候と病害虫被害、さらに1998年頃からの猪の被害である。最終的には奥田での稲作の放棄になった。前田だけに限ってみると、病害虫被害はあったが、収量は安定的であった。
 我が家では稲つくり、大型機械を使う作業は全て委託したため、手仕事と管理である。まず、苗から始まる。育苗箱の土入れから種籾の塩水選・浸種・催芽・播種・出芽加温までは手順通りで、問題は加温機の温度管理と搬出時期の判断である。
 加温機にはサーモスタットが設備してあるが、調整が微妙で適温で発芽を斉一にして搬出時に望ましい芽長にしなければ、ハウスでの育苗管理に影響する。
 健苗育成に拘ったが、田植機で田植をしてみると、一定の苗長がないと水田で苗が水に沈んでしまう結果になった。何年かの育苗体験から平均的は稲苗の姿を設定した。
 (「平均的な稲苗の姿(1990〜1996年)」の表は省略)

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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山のむらでの稲つくり14年 (2)

 稲作は、稲が水田でどのように生育するか、1年1年、観察して確認することから始まった。田植の際、前田の畦畔際に1本植えの稲葉齢・分げつ調査株を5株〜10株植え、この稲を田植から収穫まで2日毎に葉齢・分げつの調査を毎年繰り返した。
 有効分げつは第7号分げつ(第10葉出葉)までと想定でき、安心した分げつが出芽するのが第4号分げつから第7号分げつであると判断した。
 栽植密度を15cm×30cm、72株/3.3uで田植することでえられる実際の水田での穂数の確認等から、経験的に想定できる予測収量を
 1株の穂数×1穂籾数×登熟歩合×千粒重=収量・・・500s/10a
として、田植以降の生育管理を可能な限り綿密に行なってきた。
 現実には、田植、収穫作業を委託としたため計画通りには進まない面が多々あったが、1990年から1995年の稲作経過を検討して稲作技術設定を行なった。それは、次のような設定である。
 1. 田植 5月15日
 2. 栽植密度 30×15p 22株/u (72株/3.3u)
 3. 有効分げつ 第4号〜第7号分げつ (第7葉〜第10葉出葉期)  6月2日〜6月20日
 4. 中干し期 葉齢指数 92まで 主稈出葉9.1葉〜11.5葉 6月20日〜7月10日
 5. 幼穂形成期 第1次枝梗分化期(第11葉出葉期) 6月27日
 6. 出穂期 8月1日
 7. 刈り取り 9月20日

 「自然の循環系の中の稲作」を目指して「無農薬・無除草剤」稲作を始めたが、除草、特に稗にはてこずった。しかし、水田の生態環境はよくなったようで1996年の奥田の水田に大量の蛍が乱舞した。水田一面に宝石を鏤めたように乱舞する様には感動させられた。
 しかし、問題は稗である。中耕除草機を掛けると生育初期の稲は株が浮いてしまい根を傷め、一方、田面の耕土反転で新たに稗が発芽するという悪循環の繰り返しで、どうしても物理的に稗を取りきれず、残った稗種で年々稗の発生が増加してきた。6年を経過して遂に稗の軍門に降らざるを得ず1996年から除草剤を使用した。
 こうした中で、田植から出穂までの約75日間、1日の休みもなく稲の管理を行なうのである。日課は朝の水入れから始まって生育に合わせた日々の仕事がある。
 水田管理の中の大きな作業が畦畔の草刈である。畦畔率33%という棚田での稲作期の間の最低3回の草刈は、高齢者百姓にはキツイ作業であるが、稲への通風性と病害虫防除、収穫作業等から必須作業である。70歳を過ぎてからは、この作業がキツクなってシルバー人材センターのお世話になることが多くなった。

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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山のむらでの稲つくり14年 (3)

 レンゲ稲作は、レンゲの鋤き込み(空鋤)期間と田植後のガス抜きがポイントである。レンゲを導入して3回の稲作を経過した時点で、レンゲ稲作を総括のうえレンゲ稲作技術設定を行なった。
 1. 田植 5月15日
 2. 栽植密度 30×15p 22株/u(72株/3.3u)
 3. ガス抜き 5月22日
 4. 除草 5月25日 除草剤施用 水を掛け流しして田面が出ない。
 5. 有効分げつ 第4号〜第7号分げつ 出葉期:第7葉〜第10葉出葉 6月2日から6月20日
 6. 中干し期 主稈出葉9.1葉〜11.5葉 11.5葉期=葉齢指数92まで 6月20日から7月10日まで
 7. 幼穂形成期 第1次枝梗分化期=第11葉出葉期 6月27日
 8. 出穂 8月1日
 9. 収穫 9月20日

 レンゲの播種量、生産量に不確実な要素はあったが、レンゲ稲作の収穫量は基本的に安定したものと見られた。稲の収穫量を不安定にする要素は、天候と病害虫被害と猪被害であった。
 病虫害はイネミズゾー虫、モンガレ病、葉イモチ病、穂首イモチ病、穂イモチ病で毎年何らかの被害はあったが、不良天候の年は20%〜40%程度の収量減になっている。
 何よりも被害が大きいのは猪被害である。稲への被害は1991年、「今年は、山が猪にとって住みづらかったのか、早くからタンボで暴れてくれました。おかげで、我が家も万里の長城ならぬトタンの長城と鳴子ならぬネコカンナルコを築く羽目になりました。」とやや牧歌的に書いていますが、年々、田んぼでの猪の運動会は激しくなり、奥田の山側(カヤンドウ側)だけでなく全面にトタン、魚網を張り巡らし、やがてはトタンを2層に張るまでになった。
 奥田上、奥田下は、猪の被害が大きく、2003年稲作から全面休耕田にした。
 出穂期は8月1日前後である。稲が穂を出してから刈り取りをするまでは、一日千秋の思いである。
 出穂後25日という思いはあるが、意外と天候不順の年が多い。例えば、1993年の出穂の7月30日から8月25日までの間に、雨天日16日、曇天日7日、晴天日4日という記録がある。9月には台風がある、なるべく刈り取り時期を遅らせて登熟を高めたいと思うが、台風を心配して若干の早刈りになる。我が家の稲刈り予定日の9月中旬は、例年台風に遭遇する度合の多い時期であった。
 そうした、稲つくり14年の成果を収量で見てみると、10a当り収量が、
 200〜300sの年が、4年 (1994、98、99、2002)
 300〜400sの年が、6年 (1990、91、92、93、2000、03)
 400〜500sの年が、4年 (1995、96、97、2001) であった。
 この収量を見ると、年を経るごとに収量が増えているわけではなく、天候、病虫害そして後半は猪被害が減収要因となっている。
 立地が比較的安定している前田だけでみると、
 300〜400sの年が、6年 (1990、91、93、98、99、2003)
 400〜500sの年が、7年 (1992、94、95、96、2000、01、02)
 500〜550sの年が、1年 (1997) であった。
 前田は、全体の収量に比べて1ランク多い。これは明らかに立地(日照時数、病害、猪)による差である。それでも、年次間の最高、最低の収量差は、220s、225sもあり差の大きいのは意外である。
 両者の下位ランクに共通する年は、1998年、1999年の2ヵ年だけで、山村での水田立地の影響が大きいことを窺わせる。
 こうして、「知識としての稲作技術」は持ったとはいえ、手探りではじめた稲作も1年1作のなかで試行錯誤を繰り返して、「経験としての稲作技術」に変えることができた。そして、農薬を使わない、化学肥料を施用しないレンゲ稲作に到達して1段階を超えたという思いがあった。

小松展之『あわくら通信』第35号(2009.10.10発行)より転載

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