あわくらのくらし・百姓

コラム「あわくらのくらし・百姓」について
小松展之さんは還暦になってから故郷の中国山地で百姓のくらしを始めました。その16年をふりかえった体験記です。
vol.1 vol.2

江南からのメッセージ

 中国山地のあわくらを、あわくら通信(第14〜32号)に「むら私論・第1部」として「このむらのくらしの1年」という形で、このむらのくらしを、このむらの今日まで・このむらのなかの公的なこと・限界集落の高齢者などと、幾つかの切り口にして纏めました。
 「むら私論・第2部」はこのむらでの百姓のくらしの16年を、「農業は自然の循環系の中で営まれる生産活動」として、稲作り、野菜栽培など身辺のくらしの中でどれだけ実践できたか検証してみようと思います。実践という点では、何かと問題が残りましたが、楽しめたという点では十分だったと思います。
 山間地域という言葉があります。過疎ということが話題になり始めた1960年代から既に半世紀になろうとしています。限界集落ということも最近では新聞、TVでも度々取り上げるようになり、高齢者問題とも重なっております。
 ただ、具体的な山間地域の高齢化した集落の実際は伝わってきません。もっと現実とあり様に就いても情報が発信されてよいと思っています。
 高齢者になった身になってみると、高齢者の孤独という点では、山間地でも平場でも変わりが無いようです。むしろ、山間地の方が、相互の交流があるのかもしれません。

小松展之『あわくら通信』第33号(2007.12.25発行)より転載

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自産自消のくらし

 山の中の「このむら」で、百姓をして16年をくらした。学生として農学を学び、社会人として職業としての農業と農協に関わってきた身にとって、自らの百姓は還暦になって初めての体験であった。
 ここでは、個人として山村での百姓のくらしに触れてみたい。1989年11月16日、正確には前夜15日夜半に、このむらに着いて一夜、このむらでのくらしが始まったのである。
 総面積700ha、耕地7haという谷筋の小さな「むら」に、戸数21戸のくらしがあった。
 このむらでのくらしは、1,000uの屋敷地、30aの水田(実水張り面積18a)、5aの畑と8haの山林との付き合いである。このむらでの16年間の百姓くらしをなぞりたいと思う。
 百姓を農作物を自ら作って食べるくらし、そしてそれを自然の循環系の中で完成させたいと位置づけていた。それらは自らが楽しむことであり、家族としてのくらしである。
 家庭としての百姓の範囲とは、屋敷地でのくらし、すなわち、日々の日常と百姓と山を楽しむということであり、農作物として作物を作り、食べ物として食べるという自産・自消ということである。
 職業として農業・農協に関わってきたが、自らが農業に携わりたいと強く意識したのは1980年代であったと思う。
 戦後の農業、特に米について、1970年以降の米の生産調整政策が始まって、農業が従来の社会的位置からはずされる様になった。農業は農業である。工業ではないという思いから自らが農業生産に携わりたいと思うようになった。
 農業は自然の循環の系の中で営まれる生産活動である。そして、農作物→食べ物と直結すべきもので、農作物を商品とすることによってくらしとの歪が生じ、商品として高い安いが問題なっている。
 農業を「食べ物の生産」と位置づけ、これを自ら作り食べる、自産自消のくらしを考えていた。

小松展之『あわくら通信』第33号(2007.12.25発行)より転載

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住まい

 山村で百姓をするということは、その土地に住んで、土地を持って稲を作り、野菜を栽培し、山を管理するということである。
 私の場合、生れ故郷の本籍地であった。両親がはやく亡くなり、家屋は取り壊されており、屋敷地だけが残って荒地になっていた。僅かばかりであったが、田畑山林は受け継いでいた。
 屋敷地に住まいを建てることからの始まりであった。還暦を目前に住まいを建てることは勇気のいることであった。今後何年くらせるか、先ずは20年はという見込みで決断した。後継者はいなかった。
 高齢に向かってどの様な住まいにするかから始まった。屋内に段差は付けないから始まって、平屋として出入りの段差も配慮し、考えられる高齢者住宅を考え、更に百姓家としての機能を持たせることであった。
 先ず、土間スペース、これは百姓仕事をする上で仕事着の着脱、収穫した作物の置き場諸々、場合によっては食事場等の多様な空間である。
 地元の工務店(幸い、小学校の同級生)と相談して建築に入り、1989年3月上棟、1989年11月完成、1989年11月16日から本格的な田舎ぐらしが始まったのである。
 百姓をするということは、体一つというわけにはいかないが、当初は自給だからと軽く考えていた。しかし、20数年もの間放置していた屋敷は周囲は3m近い篠竹のブッシュになっていた。冬の期間中、山の下草刈り用の長柄鎌で篠竹を刈り取り燃やすということを続けた。その後も、百姓をするための農具、道具を一通り揃える破目になった。
 百姓をするためには、寝食のための住まいだけでは出来ない。納屋(木屋という)建築から始まる。材木は自家山の間伐材を製剤所に切り出してもらい製材して屋敷地の石垣を利用した2階建てで、屋内作業所、農機具等の収納庫、自動車・運搬車等の車庫、米など穀類の収納庫が納まった。農産収穫物の貯蔵、漬物、梅干等農産加工品置場のための物置、これも檜の間伐材を半割りにして組んだロッジ風に建てた。こうした1990年3月から百姓を始めるにあたって、2棟60uの付属建物を建てた。
 こうして、このむらでくらし始めた第1年目に建物だけは整えることが出来た。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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百姓道具

 百姓をするということは、土地を耕し、作物を植え、育てて収穫して食べるという一連のくらしである。収穫して食べるという土地から持ち出すものを自然な形で戻すことに循環の系が成り立つのであるが、現実には土地から持ち出したものをも戻すことは不可能なので諸々の工夫が必要となるのである。
 このような作業をまた、体と鍬と鎌があればよいという訳にはいかず農機具が一通り必要になった。稲作は規模が小さいので耕耘・代掻き・田植・収穫・乾燥の様な大型機械は委託作業とした。
 それでも、様々な農具が必要で、篠竹ブッシュを刈る長柄大鎌から始まって管理機(5HP)、チェーンソー、草刈払機、グラインダー、電気かんな、籾摺精米機、鍬類、鎌類、鋸類、井戸用ポンプ、動力八反返し(水田中耕除草機)等と機械の利用無しには百姓が出来ないのが実際であった。
 山村で百姓ぐらしをするということで、住まいを建て木屋・物置も建て、百姓道具も一通り揃えた。そうして百姓ぐらしの春夏秋冬が始まった。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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春(3〜5月)

 山の春は3月からである。3月の陽射しは、まだ寒暖の差の激しい中でも春が来たという強さを感じる。枯れた雑木林の中に[満作]が黄色なつつましやかに春の訪れを告げる。そして、こぶしの白い花が天を突くように咲き、夕暮れには打ち上げ花火のように見える。そして、鶯が声を上げ始める。当初は、下手な泣き声であるが、日に日に上手になり夏の真中まで心地よい鳴き声を聞かせてくれる。こうした山々の春を告げる姿に、人々は百姓の野良仕事の心を掻き立てられるのである。
 山の春は日に日にその景観を変える。暗かった冬の山が、[満作]、[コブシ]の花を見ると間もなく雑木林の梢が盛り上がったように見えてくる。赤茶けたような杉林が濃い緑に変わってくる。山桜が咲く。この桜は何種類かあって花の期間が1ヶ月ぐらい続く。そして、山全体が淡い緑、黄、赤と織り交ぜて盛り上がる。
 山の春は、山菜がある。蕗の薹、よもぎ、芹、ぜんまい、蕨、蕗、独活、シオデと一通り採取のために山歩きしないと気がすまない。然し、1997年ごろからツキノワグマが出没するという話が出て山に入るのを遠慮するようになった。
 百姓の春は、野良仕事から始まる。屋敷地とはいえ荒地になっていた処に家を建てたのであるから、当初は周辺の整備からが野良仕事である。冬の間は屋敷周りの篠の刈り取りであったが、春は開墾から始めた。笹が一面に生え、笹根が這い巡っている所を備中鍬(ミツグワ)、唐鍬で起こして畑にして馬鈴薯を植えた。あわくらの百姓の第一歩であった。
 こうして、荒地を開墾して畑にして春野菜の種を蒔き、夏野菜の苗を植えるのが春の野良である。流石に、開墾を人力だけで行うには限界があり、管理機を入れ機械で開墾ということになった。
 百姓の春の大仕事は稲作の準備がある。3月の苗つくりから始まる、苗箱の土入れ、種籾塩水選、消毒・浸水催芽、播種、発芽処置、育苗管理が4月、5月と続き、5月中旬の田植まで春の仕事である。
 春の旬に筍がある。このむらの日当たりの良い場所に家の孟宗竹の林がある。4月始めには筍が掘れる。朝早く竹やぶに入って筍を掘るのは楽しみである。当初は2、3本やっとの思いで掘るが、盛期には30本くらい採れる。
 この筍も何時の頃か、猪が入って掘って食い荒らすようになった。彼らは嗅覚が張っていて地中深いところの筍を掘って食べる。3月の中ごろから出没し、初物は人様の口に入らないようになった。
 この春という季節に、我が家に思いがけない大きな事柄が生じた。妻久枝の癌の手術であった。1994年正月に、体調を崩し村の診療所で検査の結果、大腸癌、しかも初期の段階を過ぎ進行性と診断された。埼玉県立がんセンターに入院、4月の手術と入院・手術・退院・帰宅と4ヶ月の闘病があった。
 以来、春・秋の定期健診を1997年まで、以後2001年まで7年間、毎春の定期健診を続け完治することができた。癌との遭遇は、わが身に起こることとは考えても見ないことであった。幸いにして、癌を克服することができ、妻久枝は、様々な農作物を「私、加工する人」に徹した暮らしを続けることができた。
 春は、食べ物の加工(農産加工)の始まりでもある。製茶:屋敷地にある茶の木から新芽が4〜5葉に伸びたものを摘んで厚鍋で蒸し炒りして丹念に揉む。こうして自家製のお茶ができる。加羅蕗:山菜として蕗を採るが、量が少なく、畑に植えるようになった。5月、6月が盛期である。10sから20sもの蕗を加羅蕗にする。年末の贈答品として貴重な製品である。これらは妻久枝の大切な田舎ぐらしである。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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夏(6〜8月)

 山の春は息吹の中で、百姓の身は、稲の苗つくり・田植、畑作の段取り、春夏野菜の作付けなど忙しく過す、そして夏。
 山の夏は、山々の緑が一段と濃くなってくる。身近に見える山の斜面の杉・檜の濃い緑は、圧迫感すら感じる。山の夏は、杉・檜の濃緑色に沈んでいると言っても良いくらいだ。
 この時期、野良は、草との勝負である。草刈の日々という感じになる。このむらの中では、1日中、何処かで草刈の刈払機のエンジン音が響いている。
 水田の畦畔率40%という我が家の水田は、米を作るより草を作るといってよいほど、法面の実面積は水張面積を超えている。水田では、田植前、出穂前そして稲刈り前の3回は最低の草刈回数である。さらに、畑の畦、果樹を植えた畑の下草の刈り取りがある。
 その上、屋敷周りである。山村の屋敷は傾斜地にあるので道路に面している所は石垣を組んであるが、他の部分は、裾のところだけ土留めの石垣だけで掘り切りである。年に3回は全面的に草を刈らなくてはならない。
 こうして、夏の6・7・8月は、常時、何処かで草を刈っているという感じになる。その上、水田では、稗との戦いがある。無農薬稲作ということで除草剤を使わない稲作は、田植をしてから30日以内に2〜3回の稗取りの八反返を掛ける。それでも残った稗は、稗が穂を出す前に、手取りで1株1株抜いて回る。結構畦畔に山積みになる。勿論、畑の野菜の中の草取りもある。
 この時期、朝夕の田んぼの見回りは日課である。朝、用水口を開けて2時間ほど水を入れて閉める。棚田で水持ちが悪く、しかも用水温が真夏でも12度ぐらいと低いので、短時間に湛水して水口を止める。こうして、7月下旬から8月上旬は稲の出穂期で、この年の稲作はあらまし終わったという感じになる。
 夏野菜:キュウリ・トマト・ナスは、5月はじめに定植、収穫がはじまる。キュウリ・トマトは、無農薬のため、雨よけ栽培でないと病気で収穫皆無になる。キュウリは、第1作目の開花が始まる頃、第2作の種を蒔く、第2作の開花が始まる時、第3作の種を蒔く、こうして4作ぐらいつくり、秋まで収穫する。
 キュウリは生食以外全て塩漬けにする。これはもっぱら妻久枝の仕事になる。盛期には毎日毎日の塩漬けで、彼女が悲鳴を上げるぐらいになる。しかしこれは、彼女の大切な仕事で、秋に、全て粕漬け(奈良漬)にして歳暮に友人知人へ送る。
 夏は、妻久枝にとって大仕事が、蕗の伽羅ぶきの仕上げ、梅干つくりがある。帰農した当初は、親戚などから生梅を求めたが、梅の苗木を植え、育成した結果、150kgも獲れ、全量を梅干にした。
 こうした夏は、春からの野良仕事の重なりで、毎年腰痛症を起こし、1週間ぐらい寝込んでいる。これは毎年の行事みたいになっている。
 この時期はこのむらの出事が多い。道普請(道路愛護日)、川普請(河川愛護日)、お滝様夏祭り、愛宕様、そして夏休みの子供向けヒラメ(山女)掴み取り大会がある。これらは、日ごろ顔を会わせることが少なくなったこのむらの人たちの交流の場にもなっている。
 夏の終わりは、お盆である。8月に入ると墓地の掃除をして、墓に花(しきみ)を山から採ってきて供える。かつては、山の採草地や水田脇にオミナエシ、キキョウ、カルカヤなど盆花が自生していたが、今は、山は植林、水田は基盤整備で面影はない。こうしてお盆の3日が過ぎると、急に、秋めいた風が吹くようになる。そして、秋野菜の種まきがはじまる。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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秋(9〜11月)

 秋の始まりは、稲刈りであろう。まだ夏の日差しの中で収穫が始まる。コンバインで収穫、乾燥機、籾摺り、この工程は2〜3日である。我が家では、水田耕起、田植を含めて大型機械作業は委託であった。
 このむらの稲刈りは、9月上旬が殆どで、誰かが刈り始めると競うようにアッという間に田んぼから稲が消える。我が家は、少しでも稔実を良くしようと稲穂を眺めながら刈り取りを決めていた。例年9月中旬である。ただ微妙な点は、この時期は秋雨と台風である。1992年から2003年までの間に、台風は上旬に2回、中旬に3回来ている。このむらの人たちは、例年の天候を睨んで稲刈りを決めているようだ。
 私の少年期は、稲刈りは10月、ハサ干、脱穀、籾干と12月に入り、籾摺りは冬の師走の仕事であった。籾摺りはこのむらの青年団の請負仕事で、石油発動機の籾摺機を1軒1軒持ち回って仕事をしていた。石油発動機のトントンと言う単調な響きが懐かしい。この頃、周囲の山々に初雪が降った。
 こうして、秋は、稲の収穫、秋冬野菜の播種、定植が一段落するころ、山々が秋の色を見せ始める。山の紅葉は標高500m位を境にその色の鮮やかさが違う。我が家は、標高300mのところにある。屋敷地に山から採ってきて植えた幼木のモミジ、コマユミ、アブラチャン、クロモジも育って秋の色を見せるが、その年の夏の天気によって色合いが違う。
 しかし山々の秋は見事である。檜、杉の濃緑に囲まれた中にある欅が秋の午後の陽に映える黄色の葉色など日本画の世界である。この時期、周辺の山々をドライブして回るのが年の行事であった。
 我が家の秋の行事に、毎年90kgから120kgを精米して、新米を親戚、友人に贈ることである。1年間無事に百姓ができたという報告であった。そして、木枯らしが吹いて山が鳴り始める頃、夏に漬け込んだキュウリの粕漬(奈良漬)の本漬けがある。これも妻久枝の貴重な年行事の一つである。
 谷底のこのむらに秋の終わりに山が鳴り始める。木の葉が谷一面、吹雪のように舞う。木々が一挙に裸になる。すごい霜が降りる。分厚い氷が張る。家の硝子戸の結露が氷の結晶になって花が咲いたように見える。こうして、冬を迎える。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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冬(12〜2月)

 このむらは、山が鳴ると冬である。谷底のこのむらを囲む山々の頂上付近を強い西北の風が吹いて雑木の枝がゴーゴーと響き、山全体が鳴っている感じになる。そして、この荒々しい山の響きは、時として山にくらす私に新たなエネルギーを与えるように、冬の間の雪の谷間におこる。
 冬になったというもう一つに荒神祭りがある。このむらの収穫祭である。今は12月の第1日曜日、朝から神社の掃除、祭りの準備をして、午後当家に集まり当家を開き、神社で祭礼、公会堂で直らい(懇親会)というこのむらの出事で冬が始まる。
 1989年12月から1990年2月は、このむらでくらし始めた、初めての冬であった。午前の外気温が氷点下8度にもなり、家の硝子戸の結露が凍り、氷の結晶の花が咲き、陽の光にダイヤモンドダストが輝くのをみて驚かされ、深々と降り積もる雪というなかで、家の片付け、屋敷周りの整備、木屋(穀物倉庫、農具置場、車庫、仕事場)建築準備で終わった。
 野良は、たまねぎ苗の植え付け、大根、白菜など秋野菜の収穫貯蔵など冬越しに備える。大根など根菜は畑に深く埋めるのが普通の冬越しであるが、畑のまま籾殻を深く被せておくと凍結に耐えるとともに未成熟の大根は冬の間も保温が効いて生長して越冬大根になる。
 こうして野良が終わる。昔は、杉檜の枝打ち、炭焼など冬の山仕事の始まりであったが、今は殆んど誰も山に入らず、一二の人が機械による枝打ちをして終日エンジンの音が響くくらいである。
 年末に、妻久枝の出番であるクリスマス、歳暮の贈物の用意が始まる。フルーツケーキつくり、餅つきである。春から造ってきた伽羅ぶき、山椒の実の佃煮、梅干、奈良漬それに岡山の特産であるママカリの酢漬け、アミの塩辛これらをセットにして、「1年の元気」の挨拶として友人たちに贈る。これらが無事に終わって年が越せるのである。
 山の初雪は12月である。時としては50pも積もることもあるが本格的な積雪は、年明けから2月中旬の間である。一夜にして30〜50pもの雪が積もり、終日降り続くこともある。幸いにして、公道は、村がグレイダーで除雪してくれるので雪の中でも自動車で出掛けることができる。しかし、40pも積もると、除雪に半日も掛かり、小中学校が休校になることが何度かある。
 問題は、玄関から公道までと家の周囲の雪掻きである。朝1番の仕事となり、1日に何回も雪掻きをすることもある。高齢者世帯では、大変な重労働である。
 山の冬を感じるのは、山が鳴ることと、黒く見える杉檜の山肌を真横に降る雪である。深々と降る雪もあるが、真横の降る雪の荒々しさは、山のエネルギーを感じさせる。
 こうして、冬篭りが始まる。1月は何かと正月に絡んだ行事で終わるが、春からの稲作の記録の整理と次年の生産計画、野菜の生産記録の整理と春野菜生産計画から始まって「あわくら通信」の記事と編集、農業の青色申告・所得税確定申告が冬篭りの中での仕事である。
 妻久枝は、収集してきた古布を選び分けしながらのパッチワークで冬を越す。
 2月も半ばを過ぎると、急に春めいた陽射しを感じるようになる。今までの沈んだような灰色の空気が急に明るくなる日が来る。しかし、その翌日は30pも40pもの雪が降ることもある。この様な激しい天気の変わりの中に春を感じるのである。気がつくと山の裾の林の中に満作が黄色な可憐な花をひっそりと咲かせており、田んぼの畦に蕗の薹を見るようになる。
 こうして、野良のことが何となく気になり、気忙しくなって冬が終わるのである。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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くらし様々

 このむらでの春夏秋冬を繰り返して年月を重ねて16年をくらしてきた。山のくらしの四季は鮮烈で強烈であった。その鮮烈さも年月の繰り返しの中で馴染んで融けこんで当たり前の日常となった。こうして山の人間になるのである。
 それでも、初春の満作、こぶし、山桜に始まる山の四季は何者にも代え難い宝であった。そうしたなかで、くらしの中心は百姓である。
 農業に係わる仕事で定年を迎えながら、自らが百姓をするのは還暦を迎えてはじめてであった。春3月に水稲の苗づくりから始まり田植え、生育管理、収穫調整という稲つくりは、丹念に記録を積み上げて稲作ノートは15冊になった。6年を経過した1996年から稲作技術設定をおこない、レンゲ稲作に到達した。
 堆肥の散布に始まったが、畑の4分の1程度は常時空けておかないと適期に作付けできないことを経験則で学び、1995年頃には夏期に27品目、冬期に13品目程度に絞って、それだけの自給で旬を十分楽しめるようになった。堆肥と鶏糞による土づくりは、年間、堆肥を10a当たり20〜30t入れ、自然の循環系の中での農業生産として試行錯誤を繰り返し、それなりの到達点に達した。稲作・野菜作については、章をあらためて詳述したい。
 百姓仕事の裏方は草刈である。山の農地は、棚田、段々畑で畦畔率が40%にもなり、田畑で作物を作るより畦畔の草刈管理のほうが重労働で時間も多くとられるような百姓になる。定年帰農の百姓にとっては晴耕雨読は夢のまた夢であった。
 雨の日は、体力回復の休養日以外の何者でもなかった。夢中になって仕事をして腕に金属疲労をおこし、リュウマチ症かと思い病院で外科にかかったこともあり、夏6月と秋11月に腰痛症を起こすのが例年のこととなった。2003年秋に起こした腰痛症は、座骨神経痛になり4ヶ月もの闘病となった。私にとって、74歳の年齢は百姓くらしの限界を悟らせる仕掛けとなった。
 百姓のくらしは、自らが作物を作って、自らが食べるということであるが、作物を食べ物に変えるのは妻久枝の役割であった。それを農産加工といった。
 当初は手当たり次第といってもよかった。蕗の薹、ワラビ、ゼンマイ、山椒の若芽、蕗、山椒の実、ぐみ、梅、キュウリ、ナス、紫蘇の実、栗、イチジク、柚子、冬イチゴ等々これらは、佃煮、粕漬、砂糖煮、漬物、ジャム、果実酒に変わるのである。やがてりんごも加わる。これらは自家産、山野採取であるが当初は近所から貰うもの、購入するものもあった。
 それでも、味、好み、体力などから絞られてきて、農産加工品として定着し、友人たちにも贈って喜ばれた品は、伽羅蕗、梅干、キュウリ粕漬、栗の渋皮煮、イチジク酢砂糖煮、柚子ジャムなどであった。
 こうした山の谷間での百姓のくらしは、体力勝負ではあるが、春夏秋冬を通じて十分に楽しめる日々が過せた。それは1989年11月16日から2005年3月8日までの15年4ヶ月22日であった。
 こうした中で、百姓のくらしから、村(地域)へとくらしの範囲が広がっていった。
 村選挙管理委員長、村財政改革審議会長、村区長会長、村社協評議員、村障害者計画策定委員、村老連副会長等を受けるなかで地域との関わりを深めていったが、この村で10年を過ぎても地域との距離は中々埋まらなかった。これは、日々のくらしの基準:座標の原点の違いにあるようであった。
 妻久枝は1990年の生活協同組合の村(地域)運営委員長をうけ、村内各地の人達、美作地域ブロックの人達との交流があり、地域に溶け込むのが早かった。これらの中から、パッチワークサークルが生まれ、毎年秋の村の文化祭に、仲間で作品を展示して、会場を彩り好評を得ていた。

小松展之『あわくら通信』第34号(2008.5.21発行)より転載

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むらのつきあい (1990.2)

 「むら」は永代の付き合いが基盤であり、この点が「まち」の付き合いとの大きな違いである。ところが、これに経済的な利害がからむと意外と難しくなるようだ。  当地では、外から帰村または移住して「むら」に入るとき、20〜50万円位加入金を支払って、さらに5年位付き合って1人前というところもあるようで、「むら」を守るということが当初の考えであったのであろうが、今は、世も移り変わってきており、経済的利害が大きく働いているのではないかと思われる。「むら」で永代の付き合いの感覚が薄くなり、経済優先が強くなると「くらし」はますます大変になろう。(あわくら通信第1号)
 「むら」は永代の付き合いが、くらしの基盤ですが、これがだんだん難しくなるのかなと思います。
 わが大字には20戸あって、当主が60才以上の家が11戸、50才以下が3戸、若者在住1戸という具合です。20戸の家の殆どの後継者、あるいは次の後継者(孫)は、ふる里を知らないで育っているわけです。
 むらに生まれ育ってこそ「ふる里」と考えると、10〜20年という期間を単位としてみると「むら」は根幹から様変わりするように思います。「むら」の維持に従来と違った基準が必要になりそうです。(あわくら通信第2号)

小松展之『むらのくらしからみえること』(2009年4月15日発行)から

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http://www.rircl.jp/ NPO法人 農と人とくらし研究センター