のふう草

コラム「のふう草」について
生活改良普及員として35年を過ごす間に、農村を舞台に魅力的に暮らす農家の女性たちに出会いました。岐阜県美濃、濃尾平野の北端で山と川と田畑に囲まれて、農婦の暮らしを愉しみ、その暮らしぶりを風のように軽やかに伝えたい、それがコラムに込める思いです。農婦と農風をもじった「のふう」と名もない「草」でありたい「のふう草」が私の舞台です。
福田美津枝


のふう草 vol.1 vol.2 vol.3 vol.4 vol.5 vol.6


味覚に成長なし・たまねぎの季節

onion 田植えが終わって、夜になるとかえるの合唱が楽しく聞こえ、水を張った田んぼの上を渡る風が爽やかです。我が家の前の川には蛍が飛び始めました。
 新たまねぎの季節です。白くてみずみずしいたまねぎは薄く切って鰹節を載せ、醤油をかけて食べると、おいしいらしいです。というのは、私はたまねぎやねぎの生まが苦手なのです。毎年、たまねぎを初めて畑から採ってきて作るのはこの鰹節・醤油かけですが、自分では食べません。サラダ類にも生たまねぎは入れないので、家族には気の毒ですが、毎日3食、年がら年中作って食べさせているもののわがままを、少しくらい通させてもらっても罰は当たらないと開き直っています(食べたかったら自分で作りなさいと)。
 その代わり、くたくたに煮たたまねぎは好きなので、じゃが芋やえんどうと一緒に煮たり、豚肉やベーコンと炒めて塩・こしょうで食べたり、味噌汁の実にしたものも好きです。小さい頃は卵とじが大好きでした。くたくたに煮た甘辛いたまねぎと半熟気味の卵のハーモニーは絶妙です。年を重ねても味覚はまだまだ子どものようです。

『日々の暮らし・日々の食べもの 26』より転載

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ひな祭りコンサート

 隣町の造り酒屋M屋さんで、今年も2月4日から3月3日まで、ひな飾り展が開かれました。M屋さんの奥さんや、新聞販売店のUさん、Nさんの女性3人が平成17年に始められて今年で4回目です。昨年から、私も加わらせていただいています。
 今年のひな飾り展では、コンサートをやろうということで、最終日曜日の3月2日に決め、地元で三味線を習っておられる方や、M屋さんの奥さんKさんも加わっておられる「T町朗読の会」の方々による朗読などを取り入れて、ぜんざいと甘酒つきのコンサートを計画しました。
 私はぜんざいを担当しました。コンサートの5日前に菱餅をつきました。白い餅と、蓬餅、赤米の餅の3種類の餅をつき、菱餅を3組作り、残りは小さな四角に切って、ぜんざい用の餅にしました。Uさんは企画と広報担当で、新聞折込にするミニコミ誌に、このコンサートのことも掲載してPRに努めます。
 いよいよコンサートの当日、前日から煮たあずきを味付けし、小梅や沢庵、かぶら漬けを用意して、会場であるM屋さんにつくと、座布団やひざ掛けを小脇に抱えた年配の方たちが、会場に入っていきます(地元の老人会の方々が楽しみに待っていたとか)。会場はM屋さんの店の中。一升びんを入れるプラスチックの箱を伏せて、そこに板を渡し、毛布を敷いた、にわか作りの観客席には、もう何人か座っておられ、店の奥の間には座布団持参の方々がひざを並べてお座りして見えます。
 ぜんざいや漬物を準備している間にも、お客さんがどんどん入って見えます。ぜんざい足りるかしら、余分に持ってきたあずきに、味をつけたほうがいいかしら、次々に増えるお客さんたちを見て、心配になります。
 時間が来て、Uさんの開会で、いよいよ始まりました。オープニングとして、初めには予定していなかった男声コーラス「岐阜ボーカルサウンド」5人の歌声が聞こえてきました。このコーラスは、飛び入りでした。コンサートの2週間ほど前に、Kさんの同級生の方々が、ひな飾りを見ながら同窓会をM屋で開かれたとき、このコンサートの話が出て、そのうちのお一人の方のご主人が男声コーラスをやっていらして、「主人たち、歌いたいばっかりだから、ここで歌わしてもらうと喜ぶと思うわ」の一言から、飛び入りの出演が実現しました。
 オープニングの飛び入りにしては8曲ほども歌われましたが、素人とは思えないハーモニーで、ひな祭りに、男声のコーラスも、なかなか面白い趣向だ、特に、女性を楽しませるには、魅惑的な男声コーラスが最もふさわしいなあと思いました。
 次は朗読の会の「故郷の春」の朗読です。地元の6人の女性が、このM屋がある町で、明治に生まれ育ち、東京で活躍した「木村小舟」さんが書いたお話の朗読です。ひな祭りにちなんで、春らしい桜のことを書いた、小舟さんの幼いころの思い出につながるお話です。子供向きに書かれたとはいえ、明治のころの言葉遣いなので、多少難しい言葉づかいも出てきていますが、それが奥ゆかしい雰囲気を作り出して、趣のある朗読となりました。優しい女性の声が、春の暖かさや、桜の華やかさを感じさせました。
 最後が「徳山流津軽三味線」の演奏です。これも、地元の4人の女性が習っておられる、その腕前を披露していただくのです。聞きなれた曲も多く、なじみのある演奏のようでしたが、このころからは、演奏が終わった後に食べていただくぜんざいの餅を焼かなければなりません。Kさんの3人の娘さんと一緒に、ぜんざいや甘酒を温め、餅焼きのフル回転です。オーブントースターや電子レンジを使い出したら、突然ヒューズが飛んで、停電。あわててご主人にセットしていただいて、再開(ちょうど演奏は夕焼け小焼けに入っていたので、三味線の方は、曲に合わせて照明を暗くした演出だと、その心配りに感激されたとか、冷や汗ものでした)。
 好評のうちに演奏が終わり、あられと炒り豆(近くの方がお手製を作ってくださったもの)の入ったおひねりが配られ、次々とぜんざいや甘酒のお椀がでていきます。予備の予備もあずきまで、大急ぎで味付けして、60客用意したおわんを洗い足して使って、大賑わいの店内。夢中になっていた餅焼きを終え、気がつくともうお客さんは去っていって、がらんとしたお店の中に、空のおわんや漬物鉢とともに、心地よい達成感が残されました。
 Kさんの話によると、最近は各地でひな飾りが行われるようになったことと、今年は土・日曜日には、必ずお天気が悪くなったので、ひな飾りを観に来たお客さんは、昨年よりも少なかったとか。しかし今日のコンサートには、予想をはるかに超えた人の入りでした。この店の中に、よくもこんなに人が入ったものだと人ごとのように感心しながら、裏方の皆さんと、残り物のぜんざいや甘酒をおなかいっぱいいただきました。
 このコンサートの前、2月4日にはオープニングを記念して、このコンサートに出ていただける朗読の会や関係するものたちで、昔のひな祭り料理を楽しみました。あずきご飯、丸干しイワシの焼き物、先星大根とサトイモの煮物、つぼ(タニシのこと・アサリで代用)とねぎの味噌和えなどを食べ、おいしいお菓子とお茶を点てていただき、楽しいひと時を過ごしました。
 私たちの年代は、日々、仕事や家事、雑用などに追われて、周りの人と話すことも少なくなっています。そんな時だからこそ、こうして時間をやりくりし、顔を合わせて話すことがとても大切なことに思えます。それに食べ物がくっつけば、「同じ釜の飯を食う」仲間意識もでき、話も弾みます。
 このひな祭りを介してのコンサートでは、地元で朗読や三味線を楽しんでいる人があることを知りました。勝手な想像ですが、演奏してくださった方々も、愉しんでくださったのではと思います。どのグループも、出演料はなくても出ていただき、お礼はおひねりのあられとぜんざいや甘酒を食べていただいただけです。
 豆炒りやあられ作りの上手な人を知って、それを味わうこともできました。その方たちも、喜んで作って、持ってきてくださいました。
 座布団を持って、芝居見物のようにコンサートに足を運んでいただいた、ちょっと高齢の方たちには、三味線ばかりでなく、チョイ悪っぽいおじ様方のコーラスは新鮮だったのではないでしょうか?(ぜひ、感想を聞いてみたいものです)
 計画したものの、最初はどうなるのか皆目つかめず、「自分たちがまず楽しめればいいや」くらいの考えで始めましたが、私たちはもちろん、演奏者のかたもお客さんも、大いに愉しんでいただいたコンサート、これからも、楽しいことを考え、大勢の人が集まって、皆さんで一緒に愉しみたいと思っています。

『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載

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再び普及員に

 2月27日から、地元の農業改良普及センターで、「農業普及指導員に臨時的に採用」され、お勤めが始まりました。Iさんという、以前G普及センターで一緒に仕事をした普及員さんが、第2子を出産するために休暇を取るので、その代わりの職員です。
 2年近く気ままな生活を送っていたので、朝きちんと起きて、家事をしてから出勤できるか、8時間以上の拘束された時間に耐えられるか、前のように普及員として仕事ができるかという不安を持ちながら、緊張して最初の3日間を過ごしました。
 この普及センターは、10年前に2年間勤務したところです。そのころは大勢の職員がいて、事務所の中はごった返していましたが、10年経ってみると、職員は大幅に減り、空き机が目立ち、整然として静かです。本当に静かです。
 仕事が始まる朝、シーンとしているので、新米臨時普及員はため息も漏らせません。昔は朝の普及センターというと、現場へ出て行く普及員がだれかれとなく打ち合わせたり連絡したり、また市町村やJAなどからも電話がかかってきたりして、騒々しいものでした。
 最初の日は、まだパソコンも与えてもらえず、内緒だけど、うちから持っていった私的な(といっても、学校で頼まれている郷土菓子作りの参考資料や、女性農業経営者会議から送られてくる資料など)ものを広げて、手帳に、私的なスケジュールばかり書き写して過ごしました。
 2日目には、3日目に起業グループの役員会に同行することになったので、そのグループの指導記録を出してもらって、隅々まで読み、ポイント的なことは書き写し、データーはコピーをとって、計算機でパーセントや合計などを出して分析しました。前の現職の時、これほどまでにしていたら、とってもよいアドバイスができたのではないかと思いながら。
 3日目には、2週間ほど先に開催される「流通・販売を考える」講演会の通知を出す仕事があって、郵送してくださいという指示だったのを、場所がわかるところだけは届けようと思い、その地域の責任者である班長に断りを入れました。ああこれでやっと現地へ行けるぞ。
 この日の午後は、起業グループの役員会。公用車を運転して、30キロ離れたS町へ。今まで担当していたKさんと一緒に役員会に出ました。役員会が進行している間に、少しずつ頭が動き始めました。懐かしいなあ、これこれ、こんな時があった。蘇ってくる感覚にぞくぞくしてきます。
 そして4日目の今、午前中は通知を持ってあちこちへ出かけ、直売所の様子を見てきましたが、帰ってからはまた暇。こうして「ひぐらし」を書いています。
 ここでの1年余の勤務で私が担うのは、生活関係の仕事(昔の生活改良普及員が行っていた仕事)です。その内容は、女性農業経営アドバイザーや農業婦人クラブの活動、そして、農村起業活動です。10年の間に起業活動はずいぶん増え、安定的な経営のようですが、どこも同じ、販売実績は以前のようには増えていかなくて、その分人件費や原材料のコストが上がっているようです。農業婦人クラブの活動は低調で、その代わりというか、女性農業経営アドバイザーは活気に満ちているようです。
 今までと違って、他に何の役職もない臨時職員なので、与えられた生活全般の仕事だけですむのかと思うと、それに集中してできることが嬉しいです。この先の1年間の仕事がどのようになるかわかりませんが、昔の勘を取り戻しながら、現状をよく見て、2年間の農婦見習いの経験も活かして勤めようと思っています。(勤務4日目の感想)

『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載

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5月の行事と食べもの−端午の節句 5月5日−

 長男が生まれた初節句に、実家から幟が届き、親戚からは祝いのこいのぼりや武者人形をいただいた。数年は幟やこいのぼりを4月中頃から庭に立て、座敷に武者人形を飾っていたが、だんだん省略して、今では武者人形2体を飾るだけになってしまった。
 お供えは粽や柏餅。菓子屋さんの店頭に並ぶと買いに行ってお供えする。5日には五目寿司か小豆ご飯を炊いてお供えするという簡単なこと。それでも今年は米の粉を練って小豆あんを包んで蒸したぶんたこを作って、柏餅の代わりとしてお供えした。

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5月の行事と食べもの−田植えぼち−

 母の弁によると、昔は田植えになると、毎晩毎晩米の粉を練って、小豆のあんこを煮て田植えぼちを作り、朝早くそれを蒸してこびるに食べるためにまわし(準備)をした。ぼちを包むものはススキの葉か、面倒な時は包まないでススキの葉を敷いてその上に載せて蒸したとか。みょうがの葉で包んだところも、がんど(サルトリイバラ、山帰来)の葉で包んだところもある。私が来た30年ほど前にはもう行われていなかった。すでに田植え機があり、田植えは戸々で行っていた。今年は田植え後、家人が朴の葉を取ってきたので、朴の葉包みの田植えぼちを、田植えが終わってから作って食べた。

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5月の行事と食べもの−田植え終いの祝い−

 田植えが終わって、2度ほど田んぼの中を回って補植をすると、田植え終いのお祝いをする。残った苗の根を洗い、親指と人差し指で握ったくらいの束を根元のすぐ上で束ねたものを3つ作り、その3つをあわせて真ん中あたりで括って、大きな束を作る。米にゆでた黒豆を入れて豆ご飯を炊き、茶碗に盛る。その2つをお盆に載せ、恵比寿様にお供えをし、仏様と神様にも豆ご飯をお供えして、田植えが無事終わったことを感謝し、病害虫にやられずに豊作を迎えることを祈る。

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声で伝える食への思い

 昨年の4月から、JAめぐみの美濃加茂本部の美濃加茂市だけに流れている有線放送・オフトークで「きょうのごっつおう」と題して、折々の野菜をうまく利用するお話をさせていただきました。オフトークを担当するIさんとの会話を通して、季節の野菜の食べ方や、その時々の郷土料理、食に対する思いなどを話し、それをIさんが3分から5分ほどに編集して、夕方6時45分からの有線放送の時間に流していただくものです。
 この時間には、AさんやSさんなどふるさとレポーターの方が何人かおられて、それぞれが、お話をされていました。Sさんとは市の「女性議会」でご一緒した縁で親しくなり、SさんからオフトークのIさんに紹介されたことにより、私も出させていただくことになったのでした。
 1回ごとに、Iさんとの会話方式で、その季節の野菜を取り上げ、それにまつわることや、自分で実際作る料理、行事にまつわる食べ物や、地域に伝わる食べ方なども含め、誰でも作っていただけるようにと心がけて話しました。
 最初は緊張して、自分でも聞けるような会話ではなく恥ずかしいものでしたが、Iさんの巧みな誘導により、少しずつ慣れてきました。地元で、JA支店とか、市の連絡所とかで出会った人が、「放送聞いてるよ」とか「あの料理作ってみたよ」などと声をかけてくださると、恥ずかしくもあり、また、いい加減な話をしないようにと戒めることにもなりました。
 わが家にも有線放送は流れてきて、私の放送が始まると、あわててボリュームを落とすのですが(なぜか恥ずかしくて、家族には聞かせられない、別に都合の悪いことをいっているのではないけど)、その後に市内のお悔やみの放送が始まるので、義母はボリュームを上げ、わざわざテレビまで消してしまいます。それで、その時間帯は、ボリュームの上げ下げが激しくなります。あるときは、放送の直後に親戚から「今あんたの放送を聞いたよ」と電話が来て、その返事もしどろもどろになったことがあります。私を知っている人に聞かれることが、こんなに恥ずかしく嫌なんて、到底芸能人や有名人にはなれないです(なる気もないけど)。
 2週間に1度の収録は楽しいときでした。収録後にIさんとする雑談のなかに、本当は伝えたい、深い内容もあったのです。マイクに向かっては話せないお話も。しかし時々、話す内容がまとまらず、うめきながら収録に向かったこともあります。どうしても話すことが浮かばなく、1度だけ、その日になってキャンセルしました(Iさん あの時はごめんなさい)。
 そんなことも、もう思い出になるようです。オフトークの機械が老朽化したのをきっかけに、有線放送を終わりにするという通知が、先日、わが家にも届きました。せっかく慣れてきたのに残念ですが、1年間聞いていただけたことに感謝しています。「高校生の娘がよく聴いていて、あの料理を作ってなどといいます」などとおっしゃってくださった方々など、うれしい言葉をいただいて終わりにしますが、また何かの方法で、オフトークで伝えてきたことを継続していきたいと思っています。

『ひぐらし記』No.20 2008.3.10 福田美津枝・発行 より転載

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弘法さま

 毎月21日が弘法さまの日で、わが組(集落)では、年寄りが十数人、公民館に集まって弘法さまのお参りをします。昔から、組には弘法堂があって、20数年前に公民館が建てられた時、その中に祀られました。
 4月21日は組全体の弘法さまの日で、当番に当たった3軒が元方になって、昼ごはんを作り、各家から女が1人ずつ来て弘法さまにお参りをして、ご飯を食べて半日過ごします。実際には21日の近くの日曜日に行います。その元が、今年は我が家に当たりました。両隣と3軒で用意をします。10年ほど前から、お日待ち(組の寄り合い)の食事はパックの弁当をとったり、料理屋へ出かけることになってきましたが、4月と12月の弘法さまの日の「お日待ち」だけは、元方がすべて、ご飯もおかずも料理することになっています。
 4月は毎年タケノコご飯と清まし汁、ひじきの煮付け、サラダ、漬物の献立です。前日に買い物をしておき、朝から公民館で、ご飯を炊いたり、おかずを作ったりして、12時に食事が始められるようにします。
 その日、11時半頃から、女衆が集まりだし、12時には揃いました。以前は、最初に弘法さまの前で般若心経を唱えましたが、最近は食事が先だそうで、今年も長老にお伺いすると、「はよう、ぬくというちによばれたほうがええで」とおっしゃり、食事になりました。24軒のうち、用事などで来られないうちもあるので、20軒と、元方の男衆3人も合わせても、タケノコご飯一升五合で済むとは、なんとも少食になったものです。
 食事が済むと、飯台を片付けて、弘法さまの前で、みんなが声を合わせて般若心経を唱え、その後にはお茶菓子や果物を出して雑談になります。昔はこうして夕方まで公民館で過ごしたものですが、最近は若い人も増えてきて、それぞれ用事があるので、一人帰り二人帰りするうちに、それではお開きにしようかと長老がおっしゃって、3時頃には終わりました。
 家ではまだ義母がこうした弘法さまの集まりには出ているので、私は元方が来た時だけ出て行きます。久しぶりの弘法さまの元方を勤めましたが、早く終わってほっとしたものの、こういう行事もだんだん簡素になって来たなあと寂しくもありました。

『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載

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野山にはお宝がいっぱい!

warabi 5月初め、山菜づいた日がありました。
 土曜日の夕方、タケノコご飯を炊く用意をしておいて、用事でFさんを訪ね、その帰りがけに、コシアブラを採りに行く相談をしました。Fさんはフキも欲しいと言うので、山の田んぼへも行ってみる約束をして、その足でAさん宅へ行ったら、軒先の水を張ったバケツから、茹でタケノコをポリ袋に一杯入れてくださいました。帰ってくる途中、畦の刈った草を寄せているMさんの姿を見かけて、ちょっとおしゃべり。「そうそう、桜の塩漬けをあげようと思っとった」と、家に走りかえって持ってきたビン詰めの桜を貰って来ました。夕方、ちょっと歩いて来たら、あちこちで嬉しいいただき物です。
 翌日曜日、義母が朝からフキを煮ています。裏の家で弘法様(毎年、その家の山に祀ってある弘法様を、近所の人たちを呼んで拝み、その後食事を振舞っていただくのです)があるので、そのおかずに一品添えるつもりのものです。別の鍋では、きゃらぶきも煮ています。そのお残りを、昼ご飯のおかずに食べました。
 昼ご飯の後、前日いただいたタケノコを木の芽和えに準備をして、残りを炊き込みご飯用、中華炒め用に切って、それぞれザルに広げて干し、夕方取り込んでポリ袋に入れ、冷凍庫にしまいました。
 冷蔵庫には、クサギを水で戻したものがあって、夕方、クサギご飯を炊きました。前の日はタケノコご飯と、味のついたご飯ものが続くけど、「ええい誰かに食べて貰えばいいや」と、いつもどおりたくさん炊きました。
 その時、玄関で呼ぶ声がします。Uさんがイタドリを一抱えして立っています。「去年一緒に採りに行った山へ、今、イタドリを採りに行ってきたからおすそ分け!」「ちょうどよかった、もうすぐ炊きあがるクサギご飯をお返しに」と届けることにして、行きつけの美容院の大先生も田舎のご出身だから懐かしいかなと、クサギご飯を少し届け、その晩の食事は、クサギご飯、タケノコの木の芽和え、フキの煮物ときゃらぶき、山菜尽くしのご馳走でした。片付けの後、イタドリの皮を剥き、ポリ袋に入れ、塩をたくさんまぶして冷蔵庫へ。こうして塩漬けにしておいて、食べる時に塩抜きをして、炒めて煮付けることを、昨年、Aさんに教えていただきました。その夜には、Uさんから「今イタドリのあく抜きを終えて、キンピラにするところ」というメールが入りました。
 翌日、夕食の支度をしていたところ、裏のオバサンが2つの袋を抱えて裏口へ。「親戚からこんなものをようけ(たくさん)貰ったで、食べんさい」と、コシアブラとコゴミです。珍しいものをこんなにようけ!!これで、コシアブラのご飯が炊けそう。コゴミは、オバサンは胡麻和えにしたそうだけど、マヨネ−ズでもいいし、てんぷらもいい。
 台所には、この日、みょうがたけも採ってきてあって、しいたけとタケノコの吸い物に入れました。夕食の後、杉の葉を採ってきて、わらびの上に被せ、熱い湯をたくさんかけて押し蓋をして、アク抜きに。コシアブラは洗ってザルに揚げ、コゴミは硬い軸を折り取って、これもザルに。台所中、山菜だらけです。
 3年ほど前、山が竹藪になってしまうからと、義母が竹を総て根絶してしまってから、タケノコが食べられなくなるのかと寂しく思っていましたが、その時期になると、あちこちから声をかけてくださって、十分いただきます。フキは柿の木の下に毎年生えてきて、みょうがたけも生えて、その少し前にはうどもあって、春先の野菜がなくなるころにはこうしたもので助けられます。昨年はイタドリやクサギの食べ方を教えてもらい、今年はさらにコゴミや、コシアブラなど珍しいものに恵まれました。
 小麦や大豆製品が値上がりしています。スーパーに行けば、あれもこれも高くなったものばかりのようですが、米を炊いて、野山にあるものに目を向ければ、難なく夕飯が仕上がります。その代わり、袋を破けばすぐ調理できるものではなく、手をかけなければなりません。
 季節のものを食べたいあまりに、昔からやってきたことを続けるために、野や山へ山菜を採りに行って、手間をかけて、自分で食べることをまかなおうとしている人たちに恵まれ、手間をかける時間にも恵まれた暮らしが愉しく、面白いものだと思う毎日です。

『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載

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涙笹のかご編み

 涙笹のかご、これもクサギと同様、わが地、伊深だけに伝わるものです。
 通称「おかめ笹」といわれる笹があります。笹の茎が1本、スーッと伸び、竹のように枝が出なくて、その茎に丸みを帯びた葉がぎっしりつきます。涙笹は、その葉の先が白っぽくなっている笹で、昔は伊深の地を流れる川岸などにたくさん自生していました。
 なぜ、葉の先が白く枯れたようになっているかといえば、伊深には、正眼寺という、臨済宗妙心寺派の修験道場のお寺があります。昔、その開祖様である慧玄さんが、天皇に招かれて京へ戻られる時に、伊深の民も別れを惜しみましたが、慧玄さんと一緒に田を起こしたり、遠い関への買い物につき随っていた牛が、別れを惜しんで涙を流した、その涙が傍らにあった笹の葉にかかって、それ以来、その笹の葉の先が白くなった、それをいつの間にか牛の「涙笹」と言うようになったという言い伝えがあります。
 そして、伊深では、昔から、この笹を採ってきて、野菜や茶碗などを伏せる籠を編んで、普段の暮らしに使ってきました。わが家にも、お蔵に8個ばかり、このかごがあります。少し前までは、法事や葬式、その他いろいろな人寄りの時には、このかごを出してきて、茶碗や鉢を洗ってふせたり、野菜や芋などを洗って、水を切ったりすることに使っていました。軽いし、大きいし、目が粗いので水切れが良く、重宝したものです。
 ところが、最近では、家での人寄りがなくなって、結婚式どころか、法事も葬式も外で行うようになり、このような大きなかごを使うことはめったにありません。いつの間にか、そういうかごがあることも忘れてしまっていました。
sasa 昨年の夏頃から、伊深に伝わる食べもの「クサギ」の復活を考えるようになり、クサギを知る会を開いたり、地区の文化祭で展示したりすることが始めてきました。そんな相談事をしているときに、「涙笹のかご」のことが話題になりました。これも伊深に伝わる大事な文化だから、私たちがまず習って、作り方を覚えようではないかということになり、近くのHさんに教えていただくことになりました。Hさんは、かご編みの名人で、昔から実にたくさんのかごを編んできた人でした。
 1回目は2月の中頃、午前中に笹を取ってきて葉をむしりとり、用意をして、午後からHさんに教えていただきました。その後もまた2〜3回集まって、教えていただいたことを思い出しながら編んでみましたが、もう一度、Hさんにしっかり教えて貰おうということになりました。
 かごを編む笹は新しい笹です。古いものだと編んでいるうち、使っているうちに折れてしまうのです。最初に教えて貰った時、採ってきた笹が古いものも多くて、使い物にならない笹がたくさんありました。それで、新しい芽が出る前に古い笹を刈り取っておけば、そこに生えるものはすべて新しい笹になると考えて、草刈機で刈り取って貰い、その刈り取ったものを使って、もう一度教えていただくことにしました(その時に、新聞店のUさんが来て写真を取り、内容を新聞社に伝えてくださって記事になりました。メールで送っている方には届きません。すみません)。
 かごを編む時期は、笹が水を吸い上げなくなった11月から3月初めです。その頃を待って、本格的に作り出し、技術を覚えてしまいたいと思っています。

『ひぐらし記』No.21 2008.5.1 福田美津枝・発行 より転載

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http://www.rircl.jp/ 農と人とくらし研究センター