のふう草

コラム「のふう草」について
生活改良普及員として35年を過ごす間に、農村を舞台に魅力的に暮らす農家の女性たちに出会いました。岐阜県美濃、濃尾平野の北端で山と川と田畑に囲まれて、農婦の暮らしを愉しみ、その暮らしぶりを風のように軽やかに伝えたい、それがコラムに込める思いです。農婦と農風をもじった「のふう」と名もない「草」でありたい「のふう草」が私の舞台です。
福田美津枝


のふう草 vol.1 vol.2 vol.3 vol.4 vol.5 vol.6


学ぶことの楽しさ…古文書研究会

book 昔の人が書いた達筆な文を読みたいというのは、もう20年ほど前からの願いでした。岐阜県歴史資料保存協会は、ずっと前から、夏休み時に「古文書読解講習会」を県下各地で開いていましたので、今までに夏期休暇をとって、数回はこの講習会に出席し、読み方を習っていましたが、年に2日間だけの講習ではとても身につくものではありませんでした。
 退職した昨年は、県下5ヵ所であるこの講習会に3ヵ所出席して学びましたが、それでも難しく、腹立ち紛れに「初心者にわかりやすく教えてください、初心者向け講習会がこんなに難しくてはついていけません」とアンケートに書いて出してきました。
 5ヶ月ほどたった2月初め、この協会から電話がありました。「昨夏の講習会の時のアンケートで、難しかったという声を何人かから聞いたが、もしよかったら、毎月2回行っている研究会に参加して、古文書を読み解く気はありませんか、第2と4火曜日の午前と午後の2回に分けて研究会を開いています。参加されるようなら午前か午後かを決めてお電話ください。これはアンケートに難しかったと書いてあった人で、住所や電話番号、名前を書いてあった人に呼びかけています」という丁寧なお誘いの電話でした。
 これはありがたいと思い、頭のすっきりしている午前に決め、電話でお願いして、参加することにしました。
 研究会は30人くらいのメンバーでした。岐阜市にある未来会館の小さな階段教室が会場でした。先生が1人おられ、テキストを用意されて、それを先生と一緒に読み解いていくものです。先生が読んでいきながら、白板にマーカーで読み方を書いていきます。時々、会員から違う読み方が出されると、皆で議論し合い、結論を出していきます。最初はまったく読めずに、ひたすら先生の読み方を聞き、板書を写すだけでしたが、このごろはどうにか自分でも読み進むことができ、先生の読み方や板書で確認するというように進歩してきました。
 板書を写すといっても、階段教室の前の方からもう席が決まっていて、いくら早く会場についても、前の席をとることができません(別に決めてある訳ではないのですが、決まっているので)。新参者は一番後ろの席なので、マーカーの古びたものを使われると薄くて、板書もわからないことがありましたが、お世話役の方が清書したものを次回にプリントして配布されるので、それで復習することができます。
 メンバーは男性7に女性3という割合で、ずいぶんお年の方ばかりです。電話を貰って、私と同時に参加した人が他に2人ありました。その3人は最初に参加した時に自己紹介をさせられました。私は「食文化に興味があり、そういう古文書を自分で読み、その時代の食べ物をことを知りたい」と申し上げたところ、何回か後の研究会のテキストに「片野家年内勝手方諸事取斗覚」という古文書が用意され、「食文化を研究される方があるので、この古文書を用意しました」と説明されました。恐縮しつつも嬉しく、しかし他の皆さんが満足されるかと思うと不安にもなりました。
 研究会は2時間で、前半に一つのテキスト、途中10分休憩して、後半に別のテキストと、毎回2つのテキストが平行して読み解かれていきます。
 「片野家」の古文書は、岐阜県最南端、木曽三川の流れるところ、海津郡輪之内町というところ、文字通り輪中の地帯で、代々大庄屋勤めていました。記録は元治元年(1864)に書かれています。名のごとく、正月から始まって、晦日まで、勝手方の行事の1つ1つを克明に記録してあります。正月には何をどのように食べ、召使には何を遣わすか、年賀には何時行くか、何を携えるかなどです。
 案に相違して、皆さん楽しそうに読み解き、子供の頃のお話や、年寄りから聞いた話なども出て、そういうことも私には興味深いものです。そういうお話を聞いていると、今お見かけしたところでは町に住み、学校の先生らしき方、どこかの奥様らしき方なども、草深い田舎で、野山を走り回り、麦の多い飯を食べ、ドンド焼を楽しんだガキ坊主だったことが伺えます。
 古文書といっても、年代は幅広く、文書も武士の手になるものから、庄屋や商家、学者のもの、楷書やくずし字など、様々で、間口が広く、奥が深いと思うことしきりです。その文字を見ていると書いた人の書き癖のようなものがわかり、内容と照らし合わせ、どのような思いで書いたのかと想像する楽しみがあります。7月8月は古文書読解講習会のため、この研究会も夏休みになりましたが、9月の再開が待たれます。もちろん、読解講習会にも今年も3ヵ所出席する予定です。学ぶことが嬉しい時です。

『ひぐらし記』No.15 2007.7.15 福田美津枝・発行 より転載

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暮らしの智恵の煮込みうどん

udon この冬は暖冬だったため、いつもは冬の定番おかずである「煮込みうどん」の出番があまりありませんでしたが、3月初めに寒波が来て、春の気配を一掃するような寒い日が続きました。
 そんな日に、遠くへ出かけることになり、夕飯を先に食べてもらうようにと、そして「煮込みうどんをしてもいいよ、アブラゲもかしわもあるから」と母に頼んで出かけました。
 母の作る煮込みうどんは、油揚げやかしわ、ねぎを入れたしょうゆ味の汁の中に、乾麺をそのまま入れて煮込むものです。在所では一度乾麺を別にゆでておいてから、煮込み汁の中に入れて煮込んでいましたので、最初はこの煮込みうどんにびっくりしました。
 しかし麺をゆでる手間が省け、ゆで汁も別に悪いものではない、そしてとろみのある汁が、のっぺい汁での片栗粉の役目のように、冷ましにくくする保温にもなるのだとわかって、百姓仕事に忙しかった暮らしの智恵であると感心しました。
 その夜遅く帰ってきてお勝手を見たら、ガスコンロの上にねぎがたくさん入った煮込みうどんの鍋がありました。

『日々の暮らし・日々の食べもの 21』より転載

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若きセールスマンの芋ほり

 息子と友人M君のさつま芋畑は、8月の日照りにも、生い茂る草にも負けず順調に育ちました。9月に入った頃から、息子に「もう少しずつ芋を掘って、食べ始めてもいいよ」と言ってきましたが、M君は「今掘ったらもったいない、大きくなってから掘る」といって、なかなか掘りません。子供たちをつれてきて芋掘り大会をやりたいなどとの計画もあったようでした。
 いよいよ芋ほりを始めました。10月中ごろの月曜日と、翌週の月曜日の2日で、2人で掘りあげました。1株に大きな芋が2つくらいついていたが、あとは小さな芋ばかりと、期待はずれの量にがっかりして、その大きな芋も何かにかじられた跡があるといってがっかり。「おばさん、物を作るって難しいね、もっとええもんができると思った」とか、「フクちゃん、来年はもっとようけ(たくさん)できるように研究しなあかん、肥料が足りんのやないか、途中で肥料をやったほうがええんやないか、研究せい」とか、昼ご飯を食べながら話します。
 (この日の昼ごはんは、掘り取った芋を使って、さつま芋のフルコースを作りました。さつま芋ご飯にさつま芋と蕪の葉の味噌汁、大学芋、さつま芋と蕪の葉入りオムレツ。息子は、「何や、また芋ばっかりか」とうんざりしていましたが、Mくんは、「おばさん、すごい!さつま芋ばっかでこんなご馳走ができるんや!」と喜んでくれました。お愛想半分としても、作り甲斐、食べさせ甲斐のある、好ましいM君)
 「M君、芋ほり大会やらへんの?」と聞くと、「おばさん、やりたかったんやけど、よう考えたら僕、月曜が休みやで、そんな日に来てくれる子供おらへん」。確かに、彼は営業マンなので、土・日は稼ぎ時なのでした。
 掘った芋は「おばさんとこの畑で作った芋やで、おばさんとこで食べて」と、大半を置いていきました。見ると、確かに大きな芋もかなりありましたが、小さな小さな、小指ほどの芋まで、丁寧に掘り取ってきていました。良さそうな芋は友人・知人に分けたり、その頃、地元の正眼短期大学ボランティア活動で、ブラジル人学校の子供たちにそば打ちとおやつ作りをすることになっていたので、鬼まん(さつま芋の入った蒸し菓子)を作ることにして、そのさつま芋を使いました。
 それでもまだたくさん残っているので、どこかで売って、せめて苗代だけでも戻してあげようかとも思いましたが、彼らは「ゴルフやゲームやること思えば、そんな金、大したことない」などというので、では、その働きが無駄にならないよう、おいしく食べることにしました。小さな小さなさつま芋は、丁寧に洗って、さつま芋ご飯や芋粥、豚汁などに使いました。そのほかに大学芋や、バター煮にして食卓に出し、あとは、凍みないようにさや糠(籾殻)を入れた紙袋に入れて、納屋の暖かいところにおきました。
 不肖の息子は、M君に引きずられての芋作りでしたが、M君は、期待ほどの成果が得られなかった芋作りにもめげず、来年もやる気です。「畑がまだ余まっとるで、春先にじゃが芋でも植えたら?」と誘うと、「ほんと、おばさん、春も使わせてもらってもええの?フクちゃん、そしたら今度はじゃが芋作りや」と張り切りだしました。うちの空き畑でM君が畑仕事を愉しみ、百姓嫌いな息子に畑仕事をさせてくれればと、オジサンとオバサンは期待しながら応援しています。

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

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米のことあれこれ-米缶の話-

kome 米の収穫を終え、10月初めには、自家用分が米用冷蔵庫に納まりました。この冷蔵庫は、JAのカタログを見て家人が3年前に買い入れました。それまでは新米がとれると、お蔵の中にある、ブリキの大きな米缶に入れていました。
 お蔵の管理は義母がしていたので、あまりその頃のことはわかりませんが、稲の刈り取りが終わり、脱穀する頃になると、天気のよい日にお蔵から米缶を出して、陽に当てていました。そのころはこんな風景をあちこちで見かけました。
 そのころ、籾摺りは隣の家と仲間でやっていましたので、籾摺り機から新米が出てくると、1斗ずつ枡で量って竹箕に入れ、義父や家人、隣のおじさんが交代でブリキ缶の中に納めました。
 やがて、コンバインで収穫する家が増えてきて、組(集落)の共有物であった籾摺り機も使わなくなり、わが家もJA出荷分はJAのコンバインで刈り取り、そのままライスカントリーへ出してしまい、伝票が戻ってくるだけになりました。自家用分は義母の縁戚のおじさんにコンバインで刈ってもらい、そのままそこで乾燥機にかけ、紙袋に入って新米が届くようになりました。それをブリキ缶に入れるのは家人一人の仕事になってしまい、高い缶の口まで30sの米袋を持ち上げて入れることに往生した家人は、米専用冷蔵庫をカタログに見つけ、さっさと買い入れたのでした。おじさんの所からきた30kg入りの米を積んだトラックは、冷蔵庫前まで乗り付け、次々に冷蔵庫へ運び入れてしまえばもうおしまいです。
 米900s用の冷蔵庫は、秋には米で一杯になりますが、食べるにつれて少しずつ減っていき、春には空いた部分に干ししいたけや切干大根の入った袋が詰まり、夏には格好の冷蔵庫になって、漬物、収穫した野菜、スイカ、ぶどう、チョコレートなどの菓子、様々な飲み物のペットボトルなどが占拠して、米は片隅に追いやられています。
 この冷蔵庫、冬には外気のほうが低いので(北海道ほどではありませんが)あまり電気も使わないようですが、夏には台所にある冷蔵庫よりも庫内温度が低いので、物の保管には本当に重宝しています。家人は自分でも様々なものを入れるくせに、人に向かっては「これは米の冷蔵庫やで、他のものを入れるな」と、時々申されます。
 この冷蔵庫の一番ありがたいことは、精米する時に、扉をあけ30sの玄米1袋を取り出し、車に積んでコイン精米にさっと持っていけることです。以前、ブリキの米缶のときは、義母が缶の下の取り出し口から1斗枡で量り、竹箕に取り出したものを、この頃は、コイン精米などなかったので、土間に備え付けの隣家と共同の精米機に入れ、半日ほどかけて精米していたものでした。冷蔵庫を入れた頃に、義母もこの精米が面倒になったのか、いつの間に精米機を隣家に譲ってしまい、今ではJAにあるコイン精米機に私が車で乗りつけることになりました。
 ところで、月に2回通っている古文書研究会では、海津郡の豪農「片野家年内勝手方所事取斗覚」という古文書を読み下しているのですが、先日、三月の項に次のような文がありました。 「貯え置き候飯米当月中残らず俵〆置きさすべき事」
この文が意味するところを、80歳位くらいに思われる会員の女性が皆に解説してくださいました。昔は収穫した米を入れた俵が、半年ほどたった3月頃に緩んできて、それはまた暖かくなる頃で、虫も入るようになるから、この時期に俵を〆直したということでした。それにあわせて同年輩の方々が昔を思い出す話を次々にされていましたが、その中にこんな話。
 「米を俵でとっとくことはほんとにえらいことやったな、ブリキの米の缶はできた時は、なんとええもんができたやろと思って、嬉しかったわな」
わが家はブリキの缶に往生して、冷蔵庫を買ったのでしたが、そのブリキの米缶が人々の喜びと期待を持って取り入れられた時代があったのだと、思わされたできごとでした。

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

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米のことあれこれ-新米の話-

 大方の野菜を自給しているわが家では、採れたての新鮮なものを食べていますが、米についてはまったく違います。兼業農家に嫁に来た私は、新鮮な野菜を食べられて満足でしたが、新米はなかなか食べられませんでした。勤め人で、何もかも買っていた実家では、秋になると安い標準米ながら、新米を食べました。
kome ところが、このうちでは、秋に新米がとれてもすぐには食べないで、年末になるとやっと義母が新米をついて(精米して)、大歳の年越しに新米ご飯を始めて炊き、正月三が日は新米のご飯でしたが、その後はもとの古米になるのでした。義母は「ここらはどこの家でもそうや、ふだんに新米を食べるところはどっこもあらへん」というので、そんなもんかなと思いましたが、こういうことでは、本当においしい米の時がなく、もはや新米といわれなくなってから、やっと「新米」に切り替わるのでした。
 それは「もしかの時に米がないようなことでは面目ない」と言って、家族が食べる1年分以上に米を備蓄してきたからでした。もしかの時はそんなにあるわけがないので、新米がとれても、たくさん残った備蓄米を先に食べなければ、どんどん古米になっていきます。「秋の収穫が終わる頃に米がまったくないようなことは面目ない」「いざ金がいるという時にも米があれば金に換えられる」とも言いました。
 ずっとそれを守ってきたので、今日現在、まだ古古米(17年産の米)を食べています。すなわち、17年にはたくさんの備蓄米を残していたのです。昨年(18年)秋に、新米を冷蔵庫に入れようにも、17年産米がたくさん残っていて入りきれません。そこで家人と相談して、米を売ることにしました。案の定、義母が反対しました。「もし私が死んだら、葬式で人寄りがあるから米は要る」という(とても死にそうにない元気な義母)のを、「今じゃ人寄りがあってもそんなに米は食べん、もし足らなんだらいつでもどこでも買えるから」。「金に困る時に米を売って金にできる」というので「米を売ったくらいの金はいつでもどこでも借りられる」などと説得して、とにかく1年分の家族の食べる分だけを残すことにしました。しかし、古米は買い手がないので、18年産の新米を売って、古米を残したのでした。
 それからの1年は古米でした。普段から古米を食べなれているのでしたが、さすがに春先からはまずくなって、米屋で餅米を買ってきては、毎回少しずつ混ぜて炊いてきました。義母も家人もこんな努力は知らず「やっぱり古米でもそう悪いことはないな」とか「冷蔵庫やで、味がそう落ちん」などと満足げに食べています。その古米もあと僅かでお終いです。これから、晴れて新米がおいしく食べられます。ばんざい!

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

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干し物いろいろ

 米の収穫が終わって、ほっとするまもなく、いろいろな仕事がやってきました、そうでなくても、秋は何かと忙しい時なのです。秋は日が短いのに、なぜか干し物が多くて、それを出したり入れたり、そんなことで毎日あわただしく過ぎて行きます。
ハブ茶 夏、くさぎご飯を教えいただいたTさんにねだったハブ茶(えびすぐさ)。軽トラックで株ごと届けてくださったものを莢?ぎして、竹箕で干しています。昔、在所で祖母が作っていました。煎ってお茶にして飲みます。懐かしい味がするかな?
しいたけ 山においてある原木から採って来たしいたけ。うちでは食べ飽きているので、近所・友人に配り、その残りを細かく刻んで干しました。今のしいたけは大きく(大人の手のひら以上)、雨上がりのものなので、そのままではなかなか乾きません。
kaki干し柿 今年は山の果樹園の蜂屋柿(渋柿)が大豊作でした(昨年は1つも生らなかった)。近所・友人・親戚・職場(家人)に届けた残り約180個を剥きました。干し柿作れというばかりで、干し竿も作ってくれない家人を恨みながら、玉ねぎ干し竿を占領し、離れ二階の褄に竿が渡してあるのを見つけ、はしごをかけて干しました。怖かった。
柿の皮 干し柿に剥いた皮も、干して風呂に入れるといいというので干しました。
しろだつ しろだつ(はすだつ・軸を食べる緑の軸の里芋)を知人がたくさん届けてくださいました。酢炒りにして食べましたが、干しておいて煮て食べたかったので、ねだって、もう一抱えいただきました。皮を剥いて竹笊で干しています。水で戻して、油揚げや烏賊と炒め煮にして食べるつもりです。
唐辛子 引っこ抜いた胡椒の株についていた赤い実を採って、笊で干しています。辛味のない胡椒だったので、唐辛子になるかわからないですが、料理の彩には使えるかなと思って。観光地の朝市なんかで売っているように、藁で上手に編めたら風情があっていいけど。
漬物・佃煮 「あぜみち文庫」で借りた「冷蔵庫で食品を腐らす日本人」(魚柄仁之助著朝日選書)を読んでわが身を振り返り、冷蔵庫の中から出てきた漬物・佃煮の類を細かく刻んで(捨てないところがいじましい)、竹笊に広げてからからに干しました。ジャーのご飯を食べる時に混ぜたり、炒飯に入れて隠し味にと涙ぐましいリメイク奮闘。
 このほかにもまだ義母が種採り用のピーマン、ササげ、なた豆、オクラなどを干し、大豆も筵数枚を広げて干しています。朝の家事を終えて、干し物を庭に拡げ、3時頃になるとバタバタと干し物を片付けるのが、最近の仕事です。もう少したったら、大根干しもするつもりです。 

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

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くさぎの展示

kusagi 11月4日、町の文化祭にくさぎの展示をしました。その前にくさぎの実でハンカチや半襟を染めたところ、その色がいいから文化祭に飾ったらと言われ、それならば、くさぎの料理「常山」も展示して見て貰おうと言うことになり、B紙に説明を書き、M子さんに常山を煮て貰い、くさぎご飯も炊いて「くさぎを食べましょう」のパンフレットも用意して展示しました。市の教育長や市議会議員さんが目を止め、常山やくさぎご飯を試食されたそうですが、パンフレットは20枚ほどしか出ていません。60半ばのZさんが来て常山を食べ「子供の頃、おじいと行った正眼寺で食べた味やなあ、懐かしいなあ」とおっしゃる。「くさぎはそんな頃から途切れているのだ」と気落ちしていたら「その人にくさぎを思い起こさせたから、展示の効果はあったよ」とUさんに慰められました。持つべきものは前向きに励ます友です。

『ひぐらし記』No.18 2007.11.20 福田美津枝・発行 より転載

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スクっと立つほうれんそう

 畑へほうれん草を採りに行くたびに、何かが違う気がずっとしていました。ある日、それに気がつきました。いつもなら、寒の入りの今頃のほうれんそうは、葉をペタっと地面に広げていて、鎌や包丁で根っこから切り取る時には、葉の下から地面すれすれに刃先を入れなければならないのですが、今年は寒の入りの今でも、ほうれんそうがスクっと立っていて、まるで3月頃の姿のようです。温暖化。吹く風は毎日冷たいのに、地面はいつもより暖かいのか。周りを見回してみても、みょうに緑っぽいようです。いつもならそこらの雑草も霜で枯れて茶色っぽい地面が広がるのに、今年は何か草々も緑っぽく、時々はタンポポの花さえ見かけます。
 いつもと同じ寒さだと、首筋を縮めているのは、こちらが年々年をとっている証拠で、やはり地球は暖かくなっていて、ほうれんそうや雑草はそれに敏感に対応しているのでしょうか。この分だとほうれんそうや正月菜だけでなく、大根や白菜の薹立ちも早くなるのかもしれません。薹立つ前にしっかり食べなければ。

『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載

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しょうえ(漬物入り納豆)

 年末も押し詰まった30日、郡上市白鳥町に住むNさんが、わざわざ「しょうえ」を持ってきてくださいました。「しょうえ」とは、納豆に刻んだ漬物を混ぜた、白鳥町二日町辺りに伝わる郷土食です。郡上に長く勤めていた私も、Nさんから昨年の秋に聞くまで、しょうえのことを全く知りませんでした。
 昨年11月の初め頃、隣町の小学校の先生から、3年生の子供たちに納豆を作ることを説明してほしいと頼まれました。それで、ずっと昔、仕事で納豆を農家の方たちと作ったことを思い出して、作ってみたところに、Nさんが近くまで来たからと寄ってくれました。その納豆は温度設定が低かったので失敗作でした。それをNさんに見せると「これはあかんなあ、温度が低いんやで。うちのお母さんはコタツに入れて上手に作るで」と言われます。
 この時、Nさんのお母さんは納豆を作って、それで「しょうえ」をよく作るという話をされました。それはNさんの夫の大好物で、夫の友人たちも「しょうえ」ができると貰いに来る、二日町辺りでは、もう、Nさんのお母さんくらいしか作る人がいなくなった、貴重な食べものだということでした。
 お母さんに納豆作りを教えてもらい、しょうえのことも詳しく聞きたいと頼むと、しばらく後に、「12月中ごろに、雪の降らんうちに聞きに来て」という返事が来たので、飛んで行きました。

Nさんのお母さんの納豆づくり
 大豆(1升)を炒る  2つに割る  皮を飛ばす  煮る
 煮た大豆をバットに広げて溝を切る(この時煮汁を取っておく)
 バットにふたをずらしてかけ、コタツの中に入れる(2日くらい入れる)
 これで納豆が出来上がり
しょうえの作り方  米こうじを用意する。
 なすの塩漬け、しその実の塩漬けの塩出しをし、刻んでおく。
 かめに米こうじと大豆の煮汁、漬物の汁(しょうゆでもいい)を入れ、納豆と刻んだ漬物を入れてよく混ぜる。
 米こうじがまだ残っているという頃が食べ頃(20日目くらい)。

 しょうえは、熱いご飯にかけて食べたり、焼き餅や茹でたじゃが芋につけて食べるのです。Nさんの夫(50代半ば)や同級生たちは、子供の頃から食べていたそうで、懐かしい貴重な食べものですが、Nさんの子供たちになると、もう食べないらしい。
 Nさんがうちで話した時にも、お母さんの納豆作りは納豆菌を入れないで、ただ大豆を煮てコタツに入れておくと自然に納豆ができるというので、大豆を入れるモロブタが木製のもので、それに菌がしみついているのかと思っていましたが、使うのはホウロウのバットでした。わらを使う気配もありません。一冬に何回も作るので、家全体に納豆菌があるのでしょうか。
 ちなみに、小学校でお話しするために、再度私が作りなおした納豆は、市販の納豆を種菌にしました(2回目には成功してよい納豆ができ、子どもたちに食べさせて、感動してもらいました)。Nさんのところでは、大豆にどこから納豆菌がつくのか不思議です。
 不思議といえば、年末に届けてもらったしょうえは、なんとも不思議なものでした。汁気の中にこうじや納豆がなす、しその実と混じっているというものです。食べられないものではありませんが、私には、それほどおいしいものとも思えず、とてもご飯にかける気にはなりません。
 その地域に、そこに暮らす人たちが食べ慣れて、おいしいと思う味、食べものがあるのだと、しょうえをいただいて、つくづく思いました。伊深に暮らす私たちが、今、「くさぎ」を伝えようと思っていますが、もしかしたら、くさぎも、他の地域の人たちにとっては白鳥のしょうえのようなものかもしれません。それでも、その土地の人たちのとっては大切な、おいしい食べもので、いつまでも食べ続けたいものには違いありません。

 郡上では、赤だつの漬物とか、切り漬けの汁で渋抜きをした柿とか、白菜やかぶの葉の切り漬けに、鳥やイノシシの肉を一緒に漬け込んだ肉漬けなど、初めて食べるものが色々ありましたが、しょうえは、今回、初めて知ったものです。まだこういう食べものがたくさんあるのかもしれないと思うと、それを調べてみたいという思いとともに、消えていくことへの焦りも感じます。
 Nさんは進んでしょうえを食べているようではなかったのですが、「お母さんのしょうえ作りを受け継いで、いつまでもご主人にしょうえを食べさせてあげてください」と、お礼状に書きました。

『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載

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洞を歩く

 秋の取り入れが終わって、冬用に野菜の取り込みをしたり、干し柿、切り干し芋、切り干し大根などをしながら、年末までは、何か追われるような気分で、慌しく過ごしますが、お正月が過ぎた途端、なにやら暇になってきます。
 義母たち、近所の年寄り衆も、日当たりが良くなってくる昼前後には、時々畑で草を引いたり、野菜の手入れをしたりする姿を見かける程度です。ましてや百姓見習いの私には何の仕事もないので、毎日、餅を食べて、グータラしていたり、パソコンに向かっているだけの日々が続きます。
 昨年夏から、普及員の全国組織の協会からある委員を頼まれ、その報告物の提出が迫っていたので、パソコンでしなければならない仕事は、嫌になるほどありました。
 そんな日が続いていた時に、健康診断にいったら、糖尿の気配が濃厚という診断を受けました。大変、大変。日ごろから、伊深地内や近辺は、コンビニに行く時も、友人知人の家を訪ねる時も、運動代わりに自転車に乗っていましたが、こんな運動くらいでは手ぬるい、やはりしっかり歩かなければと決心して、毎日30分はしっかり歩くことにしました。
 それでも、そんなに友人知人を訪ねる用事がありません。そこで、山を歩くことにしました。毎日同じところを歩いてもつまらないので、家から歩いて15分くらいの、うちの山に至るまでの道筋に、いくつかの洞があるので、その洞を1つずつ探検することにしました。時間は薄暗くなって、人目につかなくなる5時過ぎ頃です。
 集落の中を、昼日中、犬も連れずにぶらぶら歩いていると、必ず2・3日のうちに、近所中に「Y子さ(義母のこと)の嫁ごがあんなとこをのんきに歩いとった、何しとったやろ」と伝わります。

 ある洞へ入っていったら、見慣れない軽トラックが3台と、大きなバンが1台停まっていました。「ごみを捨てに来たんやろか」 最近、近くの山の中に、いろいろなごみが捨ててあるという話を聞いていました。「そうやったら、ナンバーを覚えておかなあかんなあ」と思っていると、山の中から無線か何かで大声でしゃべっている声がして来ました。「猟に来たんや、そんならイノシシを撃って貰えるで、助かるなあ」そう考えてトラックを見ると、確かに、1台のトラックに犬を入れる檻らしきものがあります。次の瞬間「あっ」と思って、来た道を走り出しました。「犬に追われたら大変、イノシシに間違われたら大変」 今にも散弾銃が飛んできて、犬が追っかけてくる気がして、走りました。思いっきり走って、しかも、履いているのは、軽いスニーカーではなく、重い長靴です。この日は相当カロリーを消化した気がしました。

 その次は別の洞へ入っていきました。棚田になっている3枚の田んぼが途切れたところに、山手のほうに上がる石段がありました、コンクリート製の石段なので、そんなに古くないもの、こんなところに何があるんだろうと思い、登っていきました。お墓があり、その脇には小さな、像が彫ってある石が祀ってありました。お墓には枯れていない花が立ててあります。墓石の側面には、薄暗がりの中、豊臣秀吉の家来の村井○○という文字が読めます。
 先日は、Aさんが、小学校の5年生の質問に答えて、いろいろな伊深の民話、歴史などをお話され、その話が貴重なので、一緒についていって、録音、記録させてもらいましたが、そのときにもこんな村井某の家来の話がありませんでしたし、以前読んだ伊深の歴史を調べて書いたものにもありませんでした。このことを誰かに聞いてみよう、また1つ新しいことがわかると思って、楽しみに帰りました。

 別の日には、また違う洞を進んでいきました。そこも2枚の田んぼの先は、ぼうぼうの草薮です。道は歩きやすくなっているので、誰かが山へしょっちゅう行っているようには思えました。薄暗がりの中をドンドン歩いて行きます。草藪がだんだん木の藪になって行きます。洞は棚田のように、段々になっている様子がわかります。でも大きな木や小さな木が生えていて、すっかり山状態。それは洞の奥まで、もう先は下り坂という、てっぺんらしきところまで続いていました。確かにそこまで田んぼが作られていたようです。誰の田んぼだろう、いつ頃切り開いて、いつ頃作らなくなったのか。

 私がこの洞の前を通って、山奥の田んぼに田植えや稲刈りに行く頃には、この洞は、確か2枚くらいの田んぼしか作っていなかったと思います。とすると30年以上前から、もう田んぼではなかったのか。
 伊深は、佐藤駿河守と言う旗本の領地でした。江戸時代、「天和の伊深一揆」というものがあったと古文書に記されているそうです。以前映画化もされた「郡上一揆」と、規模は小さいものの、ほぼ同じような一揆があって、処分された百姓もあったそうです。もしかしたら、そのころには、隠し田だったかもしれないなどと思いながら歩いていましたが、考えながら歩くということは、考えることに気をとられ、しっかり歩かないので、あまり、カロリー消耗の運動にはならない気がしましたが、暮らしているところの歴史、今の私の暮らしがどういう過程を経て築かれてきたのかを知ることは、運動以上に大切なことだと思い直して歩きました。
 友人の家を訪ねるために歩いていると、田んぼへ水を引き込む用水路の取水口も見当たりました。このように、歩くことで、先祖の様々な手の跡にも気づきます。人の目や口を気にせずに、やはり、物が見えるときに歩かなければと思いました。

『ひぐらし記』No.19 2008.2.2 福田美津枝・発行 より転載

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http://www.rircl.jp/ 農と人とくらし研究センター