風倒木

コラム「風倒木」について
半世紀近くにわたり農村を歩き、農家主婦の方々の話を聞いて、大量のレポートを書いてきた。自分勝手にまとめたものが多く、「論文」でもなく「聞き書き」でもない、不徹底な代物ばかりで不評のまま現役を退いた。ところが「農村生活研究」分野が消滅する危機に際し、有志による新センターが発足することになり、OBも発言の機会が与えられました。本人は将に倒木状態ですが、ここに茸が生え、成分が分解されて、森の糧となればありがたいと短文をよせることとした。
森川辰夫


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「農村生活」時評21 "新・幸福の科学"

 作家・書誌学者の林 望氏がテレビで万葉集の「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言いし言葉ぜ 忘れかねつる」(4346)という東国方言による防人の歌を紹介されていた。アフリカ沖に「海賊退治」という目的か、自衛艦が出て行くのを家族が見送るニュース映像を見て、老人らしく昔の戦時出征風景を思い出した。その連想で親の思いというのは古今東西変わらないものだ、ということもあるが、この当時でしかも東国で「幸い」という言葉が使われていたことに強い印象が残った。
 つくば市の国際会議場という大変立派な施設で、「現代の貧困問題と憲法」という講演とシンポの集いがあり、講演者がかの派遣村で有名になった湯浅誠氏なので友人の車に乗せてもらって参加した。湯浅さんは昨秋か、学者・研究者・院学生などに限らず知的な仕事をしている人間があまりにも社会的行動はもとより発言が乏しいと指摘、論難されている。私は細々とこの頼りない「風倒木」を書いてきたが、一向に内容がぱっとせず、筆者にあまり元気が出なかった。しかし老人とはいえ湯浅さんに叱られて、折角、このコラムを担当させて頂いているので、反響の無さは本人のせいとあきらめて、なんとか発言だけは継続しようと心を入れ替えた経過がある。
 その湯浅講演の感想には一口ではいえない、いろいろな事柄があるが、実践家による問題提起には私にとって厳しい内容があった。さらに会後半のシンポのなかで「幸福追求権」ということが話題になった。つまり「憲法25条」はそのままでは実際の生存権を保障するものではなく、国民が「生きさせろ」と国に要求する権利そのものを保障しているのだという。その生活要求、幸福追求はあくまで社会への発言、行動が基本で、近代社会や近代国家がいわば自動的に人々に保障するものではないということを教わった。第二次世界大戦以後、日本でも少しずつ社会保障が整備されてきたが、それもこの10年位で施策がボロボロになってしまった。そのためこの「生存権」も根底から考え直すことが求められている。かつて「生存権」がこの国で建前として確立しているという前提であるが、不勉強のまま農村住民の「営農・生活権」などという言葉を使ってきたのだから、不遜であった。
 この幸福追求ということだが、衣食住・家族・小地域を始め日常生活の基本のあり方を主要な課題とする「農村生活研究」という仕事は、農村住民の幸福追求権による実際的な生活手法研究ではないかと思う。学会レベルの合意として「農村生活」という実在する領域を対象としているから研究としても存在し得ると考えたが、そこに今日の研究衰退の原因があるのかもしれない。半世紀にわたり「農村生活」の日本社会における独自性が薄くなるにつれて、研究者の情熱が失われ、消滅していったのではないか。日本の学界全体に学問になんらかの価値観を持ち込むことを嫌うというか、近代的科学観に反するとする根強い理念があり、その支配に抗することができなかったという反省がある。20世紀は近代主義・合理主義という価値観が社会も学問も支配したが、それ自体を疑うことが少なかった。
 かつて「農村生活研究」は科学観上異質だ、という指摘を友人から受けたとき、反論できなかったが、それから10年たってこんなことを考えた。もっといえば、農学全体も応用生物学ではなく農民幸福の科学だと思うが、それはどこかの新興宗教の一種と受け取られるのが落ちかも知れない。

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「農村生活」時評22 "ひとつのマニュアル"

 映画化されるほど有名になった旭山動物園は、名物園長の退職で最近メディアの取材対象になった。新しく「エゾシカの森」とカナダ・オオカミ園を隣り合わせにして造り、そのお互いの緊張関係を展示しているそうだ。この北の動物園にたいして、北海道には南に北海道大学「苫小牧研究林」(旧演習林の再生)という植物展示を主体とする施設がある。こちらは樹木だから展示物はそこに立っているだけでもとより動かないし、確かに動物園のような面白さには欠ける。だから老人の友、全国ネットのテレビに登場したのを見たことがないが、日本列島だけでなく地球生物生態圏についての研究的な意義では動物園に決して劣らないのではないか。
 この施設は都市圏に隣接しており大学演習林としては荒廃していたのを、林学占有ではなく生物学研究者のための研究フィールドとして造成し、あわせて苫小牧市民を中心とした都市住民にも親しまれる樹木園的研究拠点に再生させた、あるいは再生させつつある事例である。私は林学の出身ではないが農林業関係の「実習」ならなんでもやらせられた学科なので、学生時代の貴重なある夏、一週間の演習林実習の経験がある。しかしここで森林そのものについて語りたいのではない。この研究林を創った主役の石城謙吉氏の「森林と人間―ある都市近郊林の物語」(岩波新書)を友人から借りて読んでいたら、鋭い「マニュアル」批判の文章にぶつかった。石城氏とこの演習林の直面した課題は正に前例のない事業で、出来合いのマニュアルが林学にも世間にも存在するわけは無い。それは旭山動物園の有名な新展示方式への挑戦でも同じことである。
 しかし世間は今、これまでのどの世に比しても画一的なマニュアル全盛時代で、いつもなら私も、氏の具体的で迫力のある指摘を同感するだけで、ただ読み過ごしたであろう。だがこの春、私は自分の仕事に近い分野のひとつのマニュアル本の編集に参加して、難産の末の発刊をホッとして喜んだばかりだった。その人間にとっては、「森林と人間」のひとつひとつの指摘が胸に刺さる思いである。現場では分野の違いも少しはあろうが、一般的にいって確かに良く出来たマニュアルほどそこの人間は頭を使わなくなるかも知れない。そして現場の工夫なくただ機械的な、官僚的な進め方をやれば、そこの現場が荒廃し、結果としてマニュアルの破綻となるだろう。
 この欠陥を補うものはその使用書を使う人間の、その目的に対する理念のあり方、担当する事業、活動に対する本当の熱意、やる気の高さというか、活用する構えではないか。私たちの共同して作り上げたマニュアル本は、その点を考慮して前半部分にこれを手にした当人への理念的呼びかけを重視したが、まさにその点についてのスポンサーの理解が得られずに大幅に削除されたので、この考えは必ずしも徹底しなかった。だからできたものには、現場から大いに批判を受けたいと思う。この「森林と人間」のおかげで、想定されるマニュアル批判に対して、少し心の準備ができた。
 石城氏の本は森林の歴史、人間による伐採の経過、日本と北海道の森林経営の歴史を踏まえて、今日の森林のありかた、特に都市近郊林をつくる意義を説くにいたる、マニュアルではないひとつの科学論であるが、「新書」という体裁でもあり、よく読めば市民向けの「都市近郊林の造り方」の高度なマニュアル本でもある。そうなると単なるマニュアル本と科学本との差は、一体なんであろうか。ただ単に物事への処し方を判りやすく説明したものと、ひとつの科学思想を説く啓蒙書の違いか。

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「農村生活」時評23 ""衣食住"の再登場"

 いまから十数年前だが、私は農水省の東北農業試験場という職場から隣県にある弘前大学へ転出した。年齢のこともあり、かねてより上司に「話があったらなるべく出たほうが良い」といわれていたので、もとより先方の教授会の議決によるものだが、すぐ、この話に乗った経過がある。だが大学といっても行き先が教育学部の家政教室であった。周囲は何も知らないから農学部だと思い込んでいたので、家政というのに驚いたらしい。しかもそのことを送別会の席上紹介した人物が「ご当人は向こうでセーターを編みます」とやって会場の笑いを取ったので、私はいささか憮然とした思いであった。
 これが家庭科というものに対する世間の一般的なイメージの表現である。最近のことだが、ある視聴率の高いテレビ番組で、著名なキャスターが「家庭科というのがまだ学校にあるのですか」と質問している場面をみたことがある。読み書き・ソロバンの他に英語もやらなければならないから、邪魔だというわけである。いまの小・中学校の家庭科教育には多くの批判があるが、若者が一人暮らしを始めると、いかにその教育が身に付いていないかが、自他共にリアルにわかるのである。
 なんでもこなさなければならない再就職のポストとはいえ、私にはいくらなんでも実際の衣食住の講義や指導はできない。入学早々の新一年生対象の前期には主として家族問題や原論的な講義を試みたが、直面した問題は何が生活にとっての原論か、という古くからの課題である。その頃教員養成課程では「日本国憲法」が必修だったので、憲法25条の生存権を柱にした思い出がある。昨今の憲法論議であらためてこの条文が話題になっているが、授業の狙いとしては間違ってはいなかったと思う。その頃学生による「授業評価」の走りで、学部2位になったこともあるから、ある程度こちらの気持ちが通じたのではないか。
 だが、それまでの30年近い研究者生活の「時代」では、世間は止めどない衣食住ばなれ、日常生活軽視の歳月であった。私が中学で家庭科を習った当時のような窮乏生活を脱し、ともかくあまり苦労せずになんとなく暮らせるようになり、暮らしのまわりに面白い事柄が増えたから、人々の関心がそちらに移っていったのである。なんとも荒っぽい表現だが、その後一世代分経過して、やや消費を追いかける暮らしにも疲れ、それにも飽きがきたようである。また昨今の世界情勢で、この日本でも世間の空気が変わってきているらしい。だが、ではその「閉塞感」の出口となると様々な提言があるようである。
 基礎情報学が専門という西垣通東大教授の「金融市場の数字より衣食住の細部に深い価値を見いだし、充足感を味わう」という提言(朝日・4.9)に、我田引水で狭い了見によるものだが、大いに共感した。昔から、そしていまも「自給」のことを強調するのは、私なりにこの細部にこだわることへの具体策である。西垣提案はそのこだわりを気のあった仲間と一緒にやれというところにミソがある。この同じことを私の「仲間」に話しても信用されないが、「情報学」の権威のある人がいうと世間に普及するのではないかと期待したい。現代生活にとってはこのテレビ、新聞をはじめ「情報」のことや車などの移動問題などが大問題だが、そのまた基礎にある古くからの土台部分にもっと丁寧に付き合おうという提案である。その土台部分に暮らしの精神というか生活理念というか、人々の心情の核のようなものが含まれているようである。最近心の病というか、それほど大げさでなくとも軽い症状のようなものに悩む人が多いように思う。私にはその克服課題とも、この衣食住問題が繋がるような気がする。
 さてこのところ衣食住のことばかり気にしていたら、菊池寛作の「俊寛」をラジオ朗読で聞く機会があった。南海の島に流された俊寛が魚をとり畑を耕して、自分の小屋を建てる生活自立過程の物語をテーマにしていて面白かった。あの歌舞伎の悲劇の主人公とはえらい違いで、いわば生活者としての俊寛である。

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「農村生活」時評24 "四季から6季へ"

 わが里にもかなりの雨がふり、いまや梅雨の盛りである。もっとも私は筆が遅いから、いやキーボード操作が下手だから、これが画面に出るころは梅雨も明けて暑くなっているかもしれない。北海道にはいわゆる梅雨がないそうだが、多くの日本人には暮らしのうえではなじみのある「季節」である。しかし春夏秋冬という四季は日本人にとって根源的な季節感というか、精神に染みこんでいるので、この雨期という新人は四季と同格の季節には昇格しない。
 農という営みは商工業と違い、一年という時間単位が基本である。しかも季節に対応した作物、家畜の生育の関係で農作業にはいわゆる農繁・農閑の差が避けられない。今の農家は年中忙しくていわゆる繁閑の差が少なくなっているが、それでも農作業上決定的な時期というものがあるから、季節は労働の緊張感に残っているといえるかもしれない。
 3,40年も前のことだが、私は生活研究のひとつとして、農家生活時間分析に取り組んだことがある。その時、暮らしの問題を研究対象と決めたが、主流の衣食住問題は衣料、食物、建物の中味に研究関心が集中していて、私はそれは物質分析で暮らし分析ではないと思った。しかし頭が悪く理論分野は苦手でなんとか手間ひまかければ出来る実証的な分析分野をと願い、簡単な時間数だけで表されるこのテーマを選んだ。戦後の一時期流行ったこの仕事はもうその頃は、誰も手がけていなかったが、逆にそれまでの調査報告が沢山残されていた。その中から年間記録のあるデータを対象に時間配分上の類型でバラバラにしたりまとめたりして、組み合わせを考えた。
 当時の農家時間問題の最大の課題は長時間労働であった。もちろん今日、商工業分野の職場で過労死するような長時間労働が再現するとは想定しなかったが、そのころ社会的な問題だった炭坑の重労働が消滅しつつあり、農家の労働が唯一の解決すべき社会的課題だった。そこで農繁期の時間構造をみると田植えに代表される春の農繁期は睡眠時間が短く労働時間が長い、収穫期の秋も労働は重く時間は長かったが睡眠時間はそれなりに長いことがわかった。そこで睡眠時間・労働時間・労働の軽重などを軸にして時間配分類型をいくつか想定してみた。
 当時の農家といえども年間時間記録資料そのものが少ないから、やったことはごく荒っぽい分析だが、それでも農家生活時間は一年間に5ないし7類型から構成され、なかでも6類型が一番多かった。つまり農家は大まかにいって、一年を六つの時期に分けて暮らしており、したがって季節の見方が世間より細かいと見られた。その頃京都大学の多田道太郎氏が四季に加えて梅雨、野分の六季を提唱されていたので、これだと判断した。日本列島は南北に長いだけでなく暮らし方では東西の変化も大きいから、特定の何月はなにと全国一律にきめるというわけにはいかないが、この梅雨時は我が時間配分類型では疲労回復期となり、睡眠は短いが労働負担が軽くなる。夏と秋の狭間にある「野分」は9月中心の台風期にあたるが、ここはいわば農繁準備期で労働負担も労働時間も中位であった。
 こんな話は私だけの独りよがりで、この分析手法はわが業界で研究として批判の対象にもならないで黙殺され消滅したから、いまではどうでもよいことだが、世間があまりにも長時間労働状態に逆行すると、苦しかった時代ではあったが季節に対応して時間配分を工夫していたかつての農家の暮らしが懐かしい。いまどき季節に対応した生活は年金生活・高齢者だけのものかも知れないが、この列島では季節の変化が多様だから、現役の方々も健康管理の基盤はそこにあることに注意した方がよいのではないか、と老爺は心配する。

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「農村生活」時評25 "共同体か、共同関係か"

 梅雨が去って今年限りだろうが、夏の政治の季節になった。この選挙戦は政治の論戦だから国の財政や外交のあり方が最大の論点である。だがその背景にある国民の関心事は、ここ十数年来の「構造改革」によって破壊されたこの社会をどのようにして再生させるか、あるいは時代に合わせて新しく創り出していくかという課題らしい。それぞれの政党の政見の向こうに、ごく敏感な社会層に限られるが震災の廃墟のような現実社会に向き合って、それらの人々は色々な市民による共同活動の展開された社会のイメージを描いている。つまり当面の姿としては、市民による手作りのセーフティネットのようなものである。
 そこでは懐かしい「共同体」という言葉がよく出て来るというか、私の目に飛び込んでくる。先日もある新聞の選挙関連討論の場に"信頼ベースの「中間共同体」を築く"ということが選挙テーマだ、という発言があって驚いた。昔々から「共同体」を理論上、あるいはまた観念上気にしてきた古老らが、いま社会の片隅で影響力のないままブツブツ呟いているだけだ、と諦めていたが、この意見は30代の論壇若手の発言だからその類でもなく、昨今「共同体」論は最新の論調に登場しているらしい。
 私の営業品目は「農村生活」で、特にお客さんが難しくなければ「農全般」を取り扱ってきた。引退後は新しい商品を仕入れてないので、10年近く休業ならぬ廃業である。ところが機会があって別の営業品を仕入れて、あたかも祭りの出店のようなその場限りの話をした。それはそれで終わりだが、客の中からあの話し手の本当の商売は何だ、という問い合わせがあって、茨城大学中島紀一教授の勧めで書いた「農村の暮らしに生活の原型を求める」(総合農学研究所リポート2、02.7)をその人に送った。その中には、共同体という厳密な学問用語は使わなかったが、「むら」といわれる地域社会のことを書いたので、最近の論調との接点を意識して読み直した。この文章は私のどの仕事に比しても反響のなかった、いかにもだらしのない書き物なので、いまさら本人としてもあんまり読みたくはない。しかし小冊子を渡した成り行き上、気になるので、いまの現実の社会での課題との関係を考えた。
 かつてのむら的共同体といまの日本社会再生との関係という、私の気にしているこの論点そのものをとりあげたある学者は、雑誌にまとまった論考を発表して、これからは「共同体」もこれまでのようには空間的な範囲にごだわらず、多様な社会関係の集積という点に注目すべきだという。私自身は昭和30年代の「むら」を見ていわゆる伝統社会というよりは、すでに生活上の多様な関係の小地域的集積体と考えたから、この後半の主張は良くわかるし賛成である。しかし、問題はここにいう社会関係の中味である。現代には色々な私の知らないような社会関係がありうるが、普通の人々の暮らしでは日常的な衣食住領域での関係がかなりの部分を占める。もちろん世間には全国区的な活動が生活の全てという人もいるし、さらに世界中を相手にしていて自分の暮らしの回りなんぞ、眼中にない人もいる。それもひとつの事実だが、もしその人に家族がいて子供や高齢者を含むなら、その家族としてはある生活空間に存在しているのであろう。宇宙船の住人は家族を含む地上の人々との交流を盛んに演出している。
 都市型社会が日本の過半を占め、そこでの生活における農のウエイトが極端に低下した今日でも、私はその社会条件のなかでこそ精神的安定をふくめ、食生活をはじめ住まいの環境などあらゆる生活局面で農的な部分を採用する共同活動をすすめる必要があると主張したい。奇異に思う人は、ここで災害時の自治体支援協定を想定してもらっても良い。災害時に限らないがそれらはどうせ経済的には困難な活動だから、市民による奉仕的な共同部分が基本である。そうなると連帯する相手は遠距離でも助け合う仲間の基本活動はごく狭い生活空間に限定されるだろう。そこで活動する組織こそ、古典的な「共同体」とどうかかわるか分からないが、社会的にはやや小型だが中間体の一種だろう。これから広域的な社会関係がますます広がり、重なり合って複雑になることは当然、予想されるがそれとても、この生活基盤の上にこそ築かれるのではないか。
 先のリポートには21世紀の農村像を私の知的水準で想定して、あるべき集落レベルから自治体レベルの地域重層的な生活組織・支援施設配置図(1985年作成)を掲げたが、昨今の農村社会環境の劣化を別としても今から見るといかにも医療・介護領域が弱い。農村地域の自治体だから病院はこの「図」の外で、内部には中核的な高齢者施設しか想定していない。私の重視した中地域(大字ぐらい)・小地域にあるのは高齢者「活動」組織と施設だけであった。そのようなものも溜まり場として依然として必要だとは思うが、要介護問題の深刻さの見通しができていなかった。
 私の「農村社会」将来予測の誤りはともかく、これからの介護を全部、民営化・営業対象にすることはできないし、財政問題を別にしても市民の交流抜きではそれとて決して幸福の実現ではない。もちろん限りなく医療に近い介護問題もあるが、いま話題の領域のかなりの部分はお互いの助け合い活動、介護される側とする側の差が少ない活動になるのではないか。もちろん公的な施設整備の発展、地域に対する専門家の支援・指導体制が前提であるが。
 介護問題が社会的重圧を増しつつある今日、市民レベルの議論のためにも家族介護、公的介護に加えて第三の領域を提起したほうが建設的だろう。私のように介護される日が迫りつつある高齢者の真夏の夜を悪夢で過ごさないために。

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「農村生活」時評26 "地震に揺すられて"

 暑い最中、続けて3回もゆらゆらと地震に陋屋が揺られた。私のすむ茨城県南部は日頃から地震が多く、その上わが家が建っているのが安い小規模開発地で地盤が悪く、それなりに揺れるのには慣れている。それでもこの三回にわたる連続地震は気持ちよくない。高齢者なので朝、早くから目覚めることが多いが、あの日の朝、何かの知らせか、5時前に目覚めて枕元のラジオをつけた。定時ニュースの最中、聞き覚えのあるチャイムが鳴る。何だ?と思ったら「緊急地震速報」という。その後すぐ、ゆらゆらときたから速報が間に合ったことになるが、布団から出る間もなく寝ぼけていて何も出来なかった。しかしかねてから話題の予知らしきものを聞いた始めての経験である。
 私自身が農村生活研究に従事していた時代は、戦後でも特別な私の表現では「好天好況の20年」で直接災害研究の経験がないが、ごく身近の研究者の知人には災害研究の実績がある。昔々勤務した旧中国農試は阪神・淡路大震災に際して農水省研究としては大規模な共同研究を実施して同僚たちが報告書を執筆している。また雲仙普賢岳の火山災害については、かつて度々農村調査をともにしたことのある九州大学の社会学グループが長期の調査研究を進めて浩瀚な報告書が出ている。日本列島は地球上で難しい位置にあるから、災害の種類には恵まれている。
 研究者としてはこのように報告書を書くのが仕事だが、この種の救援・復旧関係業績はデータを着実に積み上げていく考古学の遺跡発掘報告書とは性格が異なる。やはり被害地の直接関係する住民だけでなく、災害列島に住む現今の日本人の危機管理のノウハウとして生かされねばもったいない。いや台風害についてはどうやらアジアに共通のようであり、地震災害についてはまさに世界各国共通の悩みであろう。地震害については工学としての新知見がその後の建物構造とか大型構造物の設計には生かされているようだが、災害を受けた住民「生活」の再建課題はそこの政治的側面が関与するから、なかなか社会化というか、一般化しないようである。戦争難民が何千万人も生まれている時に自然災害だけを対象として特別視することにもちろん問題があるが、いわゆる難民問題よりも人道的介入がやり易く、いわば政治的側面がやや弱くなっていて、ミャンマーの台風害のように外国から対応しやすいのではないか。
 災害救助の初期はもちろん人命対策が第一でなによりも医療が優先する。そこでの物資としては水、薬品、非常食品である。災害後数日からは助かった人の本当の「生活再建」が課題として浮上する。支援体制を別にして救援物資だけを想定すれば飲用を含む生活用水、当座の食料、最低の衣料と寝具、そして雨露をしのぐテントや簡易住宅という順序になるのか。この段階、いわば緊急の救助活動がおわり恒久的な建物の再建などが始るまでの期間が実はもっとも長期にわたるのである。この生活再建の本番である、暮らしの期間の営みがあまりにも日常的というか、常識的な中味であり、早い話が映像ジャーナリズムの対象になり難い。しかし近年、外見からではわからないこの時期における被災した子どもの心理対策が強調されるように、また成人にとっても疲れの出る頃で、被災者生活研究としてはここが勘所であろう。
 したがって多様な解決が求められる現実があるが、私は余り話題にならないが、ィ・簡易な給食体制であってもどういう献立構成するか、ロ・集団生活でのトイレをどうするか、ハ・簡易な建物の場合の寝具の保温方式、ニ・集団生活での入浴体制をどうするか、ホ・子どもの保育などが気になる。しかしなかでも被災地への食料供給つまり農業・農村との接点がわれわれ業界関係者の課題である。各自治体で災害用食品の備蓄が進められているが、それはいわばごく初期の対策である。そのあとの食生活は自己責任というのが国の政策かもしれないが、住民にはかなり長期に基本的な生鮮食料品の供給体制が必要だし、なによりも給食体制が不可欠であろう。被災地におけるこれまでの自治体のやりかたをみると、予算の制限のせいだろうが、とりあえず手軽なおにぎり、菓子パンの提供があったりして、その後は体制が整備されてもせいぜい仕出弁当の配給である。これでは飢えは防げるが「生活」支援でもなく、ましてや住民には再建の元気もでない。
 "常日頃からこういう事態に備えよ"、といっても今の社会では絵空事で、世間知らずの妄言あつかいだろう。そこでなにかしら今の現実とつながるような、このご時世でも実現可能な提起が必要である。といっても妄言に近く、いかにもお粗末だが二つの提案をしておきたい。
 ひとつは昔から提案してきたつもりだが、学校の休みの期間に学校給食施設を使わせてもらって住民が参加していわゆる避難訓練だけでなく、作るところから食べるところまで体験する活動を展開することである。こんなことは自校方式で気の利いた自治組織ならすぐできる。しかしもっと一般化するにはいわゆる給食センターを利用して、あくまで有志参加でごく小規模にやることである。それも地元の高齢者施設だけを対象に試みてみることも意義があるのではないか。地元で大火事が起きてから、"そういう恵まれない高齢者の方々が住んでおられたのですか"、と驚くのでは悲しいことである。
 もうひとつは都会と農村の自治体が協定を結んで災害救援のシステムをつくっているが、そこで遠距離ではあるがこの給食支援体制の模擬活動をお互いにやりあってはどうかということである。この種の行政上のことについては無知なので何も具体的にいえないが、住民と役所がその気になればいろいろなことが出来そうである。
 いずれにしてもいくらかの予算が必要だが、一番むずかしいのは関係者の話し合いとその組織化ではないか。世間では災害ボランティアの実践活動が進んでいるが、もうすこし進めて市民参加の水準にまで高めるには、農村地域での実践で普及員の方々が積み上げてきた、住民と行政の双方を視野に入れた、これまでの生活組織化のノウハウが必要だ。こういう新しい活動が進めば普及知見の新しい領域への今日的適用になる、ということを頼む立場の人も頼まれる立場の人も気づいてないのではないか。

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「農村生活」時評27 "農と食の結びつき一考"

 仙台圏は百万人の都市でかつ、全国有数の生産力の高い、豊かな農村地域に囲まれている。松島という江戸時代からの観光地もひかえ、都市近郊農業が発達してきた。しかし東北地方随一の都市圏が拡大して産地の移動、変貌も著しい。名取市は仙台市の南に位置し、いまでは都市開発の最前線だが伝統的に農業も盛んな、いわば問題の接点にある課題の多い地域である。もとより食と農の結びつき方には地域性を反映した多様な試みがあって良いが、ここの取り組みも精彩を放つ。
 発足以来、早5年目となる「東北農村生活研究フォーラム」が「生産者と消費者を結ぶ〜"農"の現場で"宝"さがし!」をテーマにして名取市で、この夏の終わりに開催された。「フォーラム」当日の日程は名取市の産直グループの大型スーパーの店先の朝市(土曜・朝8時)と店内・直売コーナーの見学から始まり、二つの集落の2戸の産直農家の圃場見学、農家レストラン(重要文化財・洞口家住宅)での昼食と見学、および参加者の討論という充実した内容であった。
 この現場で生産と消費の結びつきを考えるのが集会の課題で、かつ小論の中味だが、様々な事情が背景にあるので単なる見学では感想以上のものは生み出せない。しかし私の目に映った精彩のいくつかについて書き連ねたい。そのひとつはいまでは全国何処でもみかける姿だが、女性グループの活躍の様子である。それは素晴らしいが、手のかかる野菜をつくり出荷、出店して宅配までやれば大変な忙しさであろう。もちろんどの農家でも男性が一緒に働いているのだが、見学対象が産直グループで、伺った勉強する側もほとんど女性ばかりで遠慮されたか、日程の中ではまったく男性に会わなかった。半世紀前には農家調査で生活や営農のことについて女性の意見を聞くのに苦労したが、今回は男性をつかまえられなかった。ここでの農と食を結びつける活動をさらに発展させるには、という課題についてみんなで話し合った。やれそうなことがいくつも提起されたが、私はやはり都市側か行政側から支援というか、仲立ちする人がいないと、農家男性の意見は聞いていないが、これ以上に農家が働く労力負担は無理ではないかと思った。
 現地見学で圃場めぐりをさせてもらったが、野菜を見て歩きながらこの散歩こそ、いまの都市住民が新鮮な農産物とともに求めているものではないかと感じた。そしてこの散歩活動の延長先に、社会的に求められている今日的な援農システムも展望できるのではないか。江戸中期、250年まえの建築物とうかがったが、豪壮な洞口家住宅の説明を聞いて、これがここの農村散歩の目玉にほかならないと痛感した。どこの農村でも農業生産が展開されていれば都会人の散歩には癒しの効果はあるが、ここではこの建物が散歩の終点になる。しかもこの重要文化財の値打ちのなかに、このでは集落の各戸がそれぞれ堀でめぐらされていることが含まれているという。この各戸の堀は車時代の道路拡張でかなり埋め立てられているが、まだ名残が何箇所もあるようである。この景観を住宅とともに保存し、仙台空港アクセス鉄道沿線として開発の進むこの地域にこそ、歴史的な宝として生かすことは、この圏域に住む現代人の役目のように思う。産直グループ応援だけでもなく農業支援だけでもなく、自分の地域づくりそのものとして、仙台圏の広範な市民の参加がえられる課題ではないか。この話し合いの中で私だけかもしれないが、この思いつきにわくわくして発言した。
 この集まりに参加して外の訪問者を受け入れてくださった女性グループには、個別にはいくつもあり、それらは構成メンバーが少しずつ重なり合っているらしい。その様子を立ち話で断片的に耳にして、ある意味ではこれこそ現代的な組織化方式のように感じた。つまり(イ)という目的のためにAというグループをつくるが、その活動を継続しつつ新しく(ロ)という目的のために別にBというグループをつくるためにAから何人か参加して新しいメンバーも加わって組織する。特定の集団になにもかも負わせるのではなく、ひとつのグループはひとつの目的を追求する。新しく仕事ができれば新しいメンバーで組織する。しかし経験の継承や発展のために幾人かはそちらにも加入するらしい。そうやって重層的に活動と組織を発展させてきたようである。
 こういう重層的な組織は中心メンバーは忙しいかもしれないが、地域で厚みのある活動が推進できる素晴らしいやり方ではないか。多面的な課題が地域にある以上、それを突破するにはこういう重厚な活動体こそふさわしい。

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「農村生活」時評28 "入浴という生活リズム"

 あるテレビ番組で関西在住の作家がひとつの思考停止の例として、あの阪神・淡路大震災時に揺すられている間はパニックになって何も考えられなかったという話をしていた。昨今、話題の避難方法の話しではなく、これを聞いて私はこの方の指摘したこととは局面が異なるが、ここ十年か二十年来か、日本の社会全体が揺すられてしまい、いわば震源に近い人ほど思考停止になっている状態ではないかと思った。世間には暴論、極論、曲論が横行して中々、正論というか、まともな話が通じない状況で、いわゆる知識人が発言を控える言論界の空気が危険だと思っていたが、社会的基盤のひとつの側面としてこういうこともあるのだろう。
 なんとかの一つ覚えだが、私は40年以上「生活リズム」という課題を追いかけ、農村の暮らしについての研究手法としての側面も提案してきた。人間は地球に暮らしている限り全ての生物と同じく、生物リズムに支配されている。それを基礎に近代人は社会に合わせて生活リズムの型を身に付けてきたが、それを具体的にいかに自分の型として自覚するかどうかが、この世間で落ち着いて暮らすためのひとつの大事な別れ道である。生活リズムというと夏休みの子どもの健康的な時間の過ごし方のような受け取り方が一般だが、実は仕事や情報に追われた社会人が落ち着くための生活作法である。
 さて、この生活リズムには多様な中味があるが、私にはあまり注目されないが"入浴"という生活行動上のポイントが気になっていた。世間では調べたわけではないが夕食後、就寝までの間に入浴するのがごく普通だろう。もちろん高齢者施設では入浴について独自の時間設定があるが、通勤時間のある勤め人の家庭では大体こうなるだろう。
 私が半世紀前に農協に勤めていた時、農家の長屋門の一室を借りて寄宿したが、その農家ではお祖父さんが夕方になると風呂をわかし、担い手世代が農作業から帰ってくるとまず入浴して着替えていた。そこは温暖な土地で年中、屋外の仕事があったからこの生活パターンはいつもごく自然に続けられていたように思い出す。その後農村調査マンに転じ、多くの農家の労働状態を圃場に、屋敷内にと追いかけて測定して歩いた。そのなかで、入浴は体の生理からいえば労働と同じ活動状態で、気分的あるいは生活時間分類上は休息状態であるという二重の性格を持ち、生活リズムからいうと労働と休養という二大生活行動上の接点に位置しており、極めて重要なポイントだ、ということに思い当たった。
 この農家の生活リズムの型を社会条件の異なる現代生活に再生させることは、将来究極の職住接近社会でも出来なければ無理だろうと考えていたが、ある新聞にこんな体験記が載っていた。働いているお母さんが夕方、保育所から子どもを引き取りすぐ、夕食の準備にかかるが、昼間お母さんと離れていた子どもがまとわりついて家事の邪魔になって仕方がない。そこで友人の助言で、帰宅すると、ともかくすぐ一緒に入浴して固く抱きしめてあげるようにしたという。すると子どもも落ち着いてくれたので、かえって夕食の準備が手際よくできるようになったという。もちろんこの入浴が働くお母さんの気分一新に役立ったことはいうまでもない。この記事を読んで現代社会において、新しく生活リズムを創造していく最前線の工夫ということを教えられた。
 日々の生活リズムを刻むのはなんといっても、24時間での睡眠時間の考え方である。
 現代日本人は現役世代が世界で一番、睡眠時間を削って生活している「トップランナー」である。バリバリ活動していて誠に合理的に見えるが、私には実はそれが健康を阻害しているように見える。医学的なことはまったく知らないが、世間でよく話題になるうつ病発生のひとつの基盤になっているような気がする。

 次は活動時間をどう過ごすかが課題となる。普通の人は職場の労働時間とその時刻がすべてを決めるが、物書きのような自分で時間を配分できる人はどうか。著名人は死後、日記でも刊行されないと具体的な生活については判らないが、これまた別の新聞記事によると「つまり、一日というものが厳として存在し、それが24時間しかない、と。この"単位"のなかで、つねにノリにいたる道を築かねばならない。これは生活のリズムの、組み立てだ。そして、リズムを刻むのは、つねに食だ(古川日出男:作家の口福、朝日09.6.6)」とある。また、稀な例だろうが、朝の入浴が執筆仕事の始まりというシナリオ作家の話も聞いたことがある。
 かつて私が仕事していた青森・津軽地域は、その頃も今も若者の就職先に乏しく気象条件にも恵まれていなかったが、弘前市内にも周辺にも銭湯のような温泉の多い所だった。私は休日に路線バスを利用して足場の良いところへ入りに行く程度だったが、大学の同僚にいつも出勤前に車を駆って毎日のように違う所に入浴してくる先生がいた。秋らしくなると津軽の紅葉とともに、近在の人々が入る気楽な温泉の佇まいと、いかにも自分の生活のペースを大事にしていた彼のことを思い出す。

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「農村生活」時評29 "増沢発言に教えられる"

 「(長野県の)農業は高齢者がやっているだけで、(日本農業の)自給率を上げていくと言っていますが、そんなに簡単な事ではない、と思っています。根本的に農業に対する考え方を変えなければだめだと思っています。農と人との関係ですが、このことについて、(農と人とくらし研究センターが)着目されたということは大変立派なことだと思います。少し私は生意気なことを申し上げて大変恐縮でございますが、日本には古来から、神道があり、儒教があり、仏教が入りました。そうしたものが人の道を教えられてきたわけでございますが、私は、そのことも大変立派で大切なことだと思いますが、私は農をやるということ、農の営み、自然や土の営みの中から生まれてくる思想が形成されてくる、農と土やそういう自然の中から形成されてくる思想が最も大切である、とこのように考えるわけであります」。
 これは本センター「設立一周年記念イベント」(2009.6.20)における、岡谷市・増沢俊文さんのお話の末尾、まとめの部分での発言である(座談会「岡谷で農!を語ろう」の記録、13〜14頁、本センター刊)。増沢さんは大著、「農民の生活」の著者ではあるが、農業者として昭和時代を一筋に生きてこられた方で、御自分の発言にはなにものにも制約されないし、世間に遠慮される事柄もないという、率直な方である。若いころからこういう性格だったのかもしれないが、80歳を越えられての発言には重みがある。最近こそ農業者自身の発言がマスメディアにも一般的になったが、かつては農協組合長とか生産組織代表などの立場のある人の発言ぐらいしか目にしなかった。一昔前までは普通の農家の、いわば社会的発言は少なかったといえる。ましてや私より年配の方々の個人的発言は貴重である。
 しかしそのことよりもここでの課題は発言の中味である。増沢さんは「農の思想」という表現で止められているから、必ずしも中味は明示的ではないが、その位置付けは明確である。つまり神道、儒教、仏教よりも「農の思想」の方が基底的である、日本人にとっては「大切」である、という主張である。つまり近代において「農本主義」として研究されてきた独自思想よりも、もっと一般人に共有的な、常識的な深層の思考部分である。
 こういう潜在的な考え方は農村地域にはいまなお広範に存在するが、日本の思想史研究のなかでは軽視されてきた。なによりも知識人に軽蔑されてきたから、歴史のどの時代でも表面化しなかったし、それは現代でも例外ではない。そもそも日本人に外来思想を受け売りするのが「知識人」の営業だから、商売敵はたたかねばやっていけないのだろう。日本思想史においてこの課題を正面から取り上げ、現代にいたる外来思想との関連で評価したのは、私の知るかぎり加藤周一である。加藤は「土着的世界観」という概念で、今日に至るまで日本人を支配している考え方の仕組みを解明した。増沢さんの主張はこの概念の提起と大いに関連するから、私としては気になった次第である。
 増沢さんはこの発言のあと近代思想にも触れられているが、ここでは外したい。この中世以来の外来西洋思想の受け売り営業は、日本社会では現代でも大いに繁盛しているから論評の対象としての話題に事欠かないが、話をはっきりさせるために引用部分に即して、少々局面を限定したい。
 増沢さんの「儒教」には「道教」も含むのではないかと思われるが、ともかく「仏教」と共に大陸からの外来思想である。ここにいう「神道」がいかなるものか、ご本人に伺ってみないと分からないが、明治政府の「国家神道」とは別の古来からの伝統的なものだとすると、それは加藤によればアニミズム、祖先崇拝、シャマニズムから成り立っている。これらの源流的な思想は変形しながらいまなお日本人の心情に生きているから、必ずしも「農」の思想とは無関係ではないだろう。
 しかし、伝統的に日本人の思想を支配してきたとだれもが思っている神道、儒教、仏教という三大思想よりも、増沢さんは農業者として、農村に生活してきた人間としての実感から思想の源泉としての「農」を重視する。この増沢提起を私なりに極端に単純化していえば、日本列島においては自然環境に対応してその土地の耕土に対して適切な技術を駆使して働けば、どうにか安定した収穫物が得られるという経験則から生まれた、自然尊重、土地尊重を伴う労働観ではないか。そしてそれらを包括したものが営農観だと主張されていると感じた。これは観念的な抽象的な存在である神仏に依存しなくとも現世に豊かなくらしがあるという「現世主義(加藤)」であり、生産物の成果が自分の働きに対応しているという点で「現在主義(加藤)」に対応することになる。
 世界中のどの民族もそれぞれの伝統的な世界観を持ち、そこに言語を含めてなんらかの外来思想が到来してさらに独自の思想風土を形成し、歴史的にその繰り返しを経て地球規模のやや普遍的ないくつかの思想に収斂してきているのが現代であろう。日本は大陸の隅というか、端にあって、海を越えてきた多様な外来思想を受容してきた。しかし表面的には抵抗なく受け入れたようで、仏教式葬儀はどこにもありクリスマスは日本中の子供に不可欠である。だが思想の底の部分では土着的世界観が強力で、儀礼的な部分は別として、外来思想の骨格部分を本当には受容してこなかったことを再考すべきである。
 さらに私は日本ではどうして古代以来の独自の世界観の再生力が強いかという課題に当たる。それはまさに増沢発言にあるように列島全域において千年以上もかの「自然依存の営農方式」が農家によって維持され、再生産されてきたことにあるのではないか、と想定した。だが今は肝心のその底が抜けているというのが、増沢さんの憂農、憂国の訴えであろう。

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「農村生活」時評30 "いま山村から撤退か"

 大した開発地ではないが、わが住まいは首都圏内の都市近郊地域の一部だと思っていた。この頃、あたりの様子が少し変って来た。近くに空き家もあるがそれだけでなく、生活圏内の商店がどんどん変わる。自動車販売店やGスタンドのほかに手作りパン屋さんが閉店し、私が定期購読雑誌を頼んでいた本屋さんがつぶれて購読そのものを止めてしまった。これらの店はどれも建物はそのままなので、まわりが淋しくなり、残された空間が殺風景である。なかでも郵便ポストのあったコンビニがやっと高齢者向きになったのに、営業不振で突然無くなったのには驚いたし、いかにも不便になった。一方車で行く数キロ範囲には東と西に巨大な商業店舗群ができているらしいが、別に用事がないので行ったことが無い。全国的な地域の変容と衰退は地理的条件も歴史的条件も様々だが、決して他人事ではない。首都圏におけるかつての集合住宅団地のオールドタウン化が伝えられているが、その次に来るのは私の住むような開発団地のケースである。
 日本中の地域が壊れてしまい、その典型として「限界集落」問題が社会的な課題となって久しいが、ある新聞に若手研究者の提言として過疎集落の"積極的な"「撤退農村計画」が登場したのには驚いた。私は10年前に「集落移転後の20年」という小冊子を書いたから、ほぼ30年前の"消極的"・計画的な山村集落のふもとへの集団移転計画とその後の住民生活を論じたという立場がある。その調査事例の片方については移転計画時にも関わったので、気持ちの中には住民の転居はあれで良かったのかという反省の念もあった。
 この若い研究者グループの善意を疑うものではないが、多分、現代的な割り切りに優れているのだろう。国土計画論者の中にはカネのかかる山村は全部撤退して都市を集中的に整備すべし、という意見があるそうだ。なるほど、そういってもらったほうが問題の局面がはっきりする。日本の山々はみんな、何らかの形で水源だから、その水流は連続して上から下まで全部、大小のダムにしてその水で、整備される都市に日本人は皆、生活することにするか。
 ダムといえば昨今、やっと論議の対象、行政の検討課題になったが、私にはすでに日本中がダムで埋め尽くされたような気分である。半世紀前、学生時代に当時、花形だった天竜川の佐久間ダム建設現場を見学したことがあり、それが今は土砂で埋まり、下流に害があるなどと聞くと、幼さがよみがえり苦い思いがする。このダム論議を逆手に取り、あるところで"山村は人材のダムだ"、"日本文化のダムだ"とやりかえしたこともある。
 ダムに限らないが、日本という国のありかたが政治経済的にあるいは社会的に問われる時代になった。そこで維持経費問題で山村地域から住民を撤退させるプランが堂々と提示されるなら、単に限界集落論的範囲ではなく、原理的な国土問題として21世紀列島プランを根本的に国民的討議する必要がある。いま行われているような耳障りの良い、一見経済上合理的に見える、改革論者による短時間の討議で、これ以上山村や地域社会が壊されてはこまる。今はここ20年、30年来、年数と経費をかけてきたいわゆる「都市」も粗末な工事であちこちが崩れてきている事態を迎えているのである。
 そんな折、小田切徳美先生の最新刊、「農山村再生」(岩波ブックレット・768)を読んでやっと安心した。この本の提起の根本は新しいコミュニティだから、そこに学ぶべき課題は多々あるが、それは今後の宿題にしたい。ここで先生の再生提案に悪乗りしてこれからの農山村について考えるならば、撤退ではなく、まずいま住民の住んでいる地域の暮らし保全であり、その上で肉親の帰郷もふくむ様々な縁による新住民の移住プランが基本である。そもそも人がいなければ農林業振興はできないし、主として山村から成る列島の骨組みを形成する地域の環境保全もできない。
 その際の論点の一つはこの地域の自然環境が日本人の現在持っている財産であり、これからも多くの価値を生む可能性があることを認めるか、否定するかである。もう一つは日本に農業はいらないのか、農と結びついている林業はいらないのか、農とむすびついている沿岸漁業はいらないのかという問題である。さらに大都市整備を集中的に実施して五輪でもやろうかというのと、農山村の暮らしを保障して、自給も互助システムもある落ち着いた住民生活をつくるのとが、国民経済上どちらが安上がりか、その環境負荷如何ということである。
 これは本当は科学的にキチンと計算したほうがいいかもしれない。しかし、問題は計画論的な技術課題ではなく、あるところで菅直人国家戦略相がいったように、"政治的判断を政治的に検討する"という政治課題なのである。
 積極的撤退論のポイントは表からは隠れているが農のあり方をめぐる考え方、というか、棄農の勧めである。この提案者は合理的な農業振興策、農地保全も計画しているというが、いまの農山村民の身についた農業技術、山村保全技術なくして、個性に満ちた傾斜地などは簡単には再生、活用はできない。本当に地域を再生するというなら、この人たち自身を保全する、そこでくらしが成り立つように手筈を整えるほかない。それは当事者にとって中々困難な暮らしだろう。しかし私が移転経過を調べて痛感することは、通勤・通学する世代は別として、山村民にとって農や山と離れた移転先の平地に、高齢者の幸福はないのである。

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http://www.rircl.jp/ NPO法人 農と人とくらし研究センター