くらし

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「気違い農政周游紀行G」わしの手からダシがとれる

 できれば苦労はしたくないと思うのが人の常である。しかし、苦労しなければ何も身につかないということもまた真実である。老いた農婦の、日に焼け節くれだった皺だらけの手に、私たちは何を見るのか。
 『変貌する農村と婦人』(監修丸岡秀子、家の光協会、1986年)の序に、ある古老の女性の話が出てくる。

 北海道で、明治期に親に連れられて入植し、現在、酪農の安定した生活を持つようになった九十二歳の老母の話を、このごろ聞く機会があった。熊と鮭と鰊と、そして極寒未開の凍土と、明治初期の北海道は、徒刑と流刑囚の蝦夷が島だった。その中で、生活を築き上げたのが、彼女の歴史だった。
 ところが、彼女は、「苦労なんか、何ひとつなかったよ」と、したたかな面魂で、訪ねてきた女性に答えたという。お話し合いした家の前には、大雪山の雪渓が、冷えびえと連なっていたが、ふと、彼女の手を見たとき、その手は、ズワイガニを思わせる凄さだったともいう。これは、北海道の婦人史に取り組んでいる女性の報告である。

 これを書いた丸岡秀子は、「ズワイガニを思わせる凄さだった」と女性史家の感想を記して、手についてそれ以上の論評は控えている。続けて、「ここにも、わが農村婦人の生活史を築く、活力の象徴がある。」とだけ書き添えている。
 この序を読んで、「苦労なんか、何ひとつなかった」と語る北海道の女性の言葉に偽りはないと思った。ズワイガニのような手が彼女の積み重ねた苦労の跡であるのなら、苦労なんかなかったと語る「したたかな面魂」は、人間として彼女の魂が到達した計り知れない深淵をあらわしている。その暗闇は私たちが容易にうかがい知れぬほど深い。乗り越えてしまった苦労は、もはや苦労ではないのだろう。
 先だって山口県を訪れたとき、生活改良普及員(今は農業普及指導員という)の西村美和さんにその話をしたら、こんな人を知っていると、ある生活改善実行グループの女性の言葉を教えてくれた。その女性は、年輪を重ねた手を差し出して言ったという。「わしの手からダシがとれる」と。苦労の証だけでなく、何でもできる手、という意味なのだそうだ。その表現には、自分のたどった半生に対する自負が込められている。
 農家の女性の多くは「自分の娘は農家に嫁がせたくない」と言ってはばからない。よく耳にする話だが、私たちは聞き違えてはならない。農家の女性たちが決して自分のことを卑下しているのではないことを。強いて言えば、憤っているのである。家族の暮しを支えるために、自分が重ねてきた苦労に対して、周りの評価があまりに低いことに。
 農家に嫁いだなら身につけて「当たり前」と昔は思われていたことが、決して当たり前でなかったことを肝に銘じたい。苦労を刻んだ手をもつ一介の農婦はみな偉大である。

片倉和人

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備忘録 鈍行の楽しみ

 急ぐ旅でなければ、各駅停車の電車に乗って移動する。地方を走る平日の電車の乗客はまばらだ。私の旅の道づれは、ゆっくり移り変わる車窓の風景と、脳裏に去来するとりとめもない断想たちである。
 冬のよく晴れた日には、車窓から遠く雪をいただいた山々が見わたせる。甲府盆地だったら、北に八ヶ岳連峰が横たわり、南に富士山の頂が顔を出している。家々が重なり人間が多く住まうのは平らかな低地なのだが、山脈の存在は圧倒的で、日本列島に君臨しているのは人間ではなく、頭に白い冠をいただいた山々だと想わずにいられない。
 甲府から身延線に入る。終点の富士駅までに38駅ある。信州の険しい山ばかりみて育った私には、高校生のとき初めて乗った身延線沿線の山並みは、そのやさしい姿ゆえに強い印象を残した。一人で静岡に住む姉に会いに行った。あのとき身延線を使ったのは好奇心と旅費の節約からだったが、今度岡谷から静岡に出かけるのに身延線に乗ったのは別の理由からである。
 三人連れのお婆さんたちが乗ってきた。「自分の生れた在所は、電車で通るだけでもなつかしい」と一人が車窓から見える対岸の山里を指さしている。のんびりしたやりとりが耳にここちよい。三駅ほどで降りていった。
 なにげない日常が、地面から少し浮き上がって、日常でなくなる時間が、山里をゆく各駅停車の電車の中に流れている。

片倉和人

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備忘録 新緑

 新緑の季節になると決まって、教室の窓から新緑をながめていた小学生の頃を思い出す。天竜川の谷あいにあった校舎は古い木造で、教室の窓の外一面に対岸の山が迫っていた。冬の間、山肌は黒い森と枯れ木のツートンカラーでおおわれ、何の変哲もない殺風景な姿をみせているのだが、毎年春が来ると一変し、一斉に芽吹きはじめた樹々は、一本一本微妙にちがう色をまとい、しばしの間その個性をあらわにする。私はその不思議をあかず眺めていた。
 やがて初夏の日差しとともに新緑の繊細さは失せ、夏には力強いが単調な濃い緑一色に変わる。小学生のときは、ひ弱だったり、勉強が全く苦手だった同級生たちも、みなそれなりの大人に変わっていったように、私の子供もいつの間にかそれぞれ緑を深めて森の中にまぎれていった。小さな子供はみな、いたいけな繊細さのなかに個性を輝かせていて、それゆえに愛しかったのだと、今年も新緑の季節をむかえて想う。
 逆に私はといえば、一様に緑の濃さを競っていた季節を通り過ぎ、紅葉の時期を迎えている。もうそろそろお前の自分の色を出してもいいのだよ、と心の声が語りかけてくる。どんな色が出てくるのか、自分でも見当がつかない。ひょっとしたら銀杏や楓のように鮮やかな色合いが、この緑の葉の中に隠されているのかもしれない。しかし、それもひとときで、いずれは枯れて地に落ち、くすんだ茶色に変わり、土と化していくのであろう。

片倉和人

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「気違い農政周游紀行H」苦労の味

 「80になって自分のうちでとれたコメを食べれるとは思わなかった。」母のこの一言で半年の苦労が報われた気がした。母の生家には田があったが、嫁ぎ先にはなく、かわりに養蚕と糀屋の家業に従事し、桑畑の株間に大麦を植えて、ごはんにまぜて食べたという。
 私はこの4月、ろくに知識も経験もないのに、行きがかり上、コメ作りに挑戦することになった。苦労して荒廃農地を開墾したばかりだったので、目の前で新たな耕作放棄地が生まれるのが、いたたまれなかったのである。4枚合わせても1反ほどの面積だが、除ケ入と呼ばれる棚田で、ただ一人田んぼをつくり続けていた玉蔵さんが今年はもうできないと言っていると聞き、あわててお借りして続ける算段をした。50枚を数える棚田のうち、今もかつての姿をとどめているのはこの4枚だけである。播種期の直前で、あわてて農協に苗を注文した。ちょっと標高が高いのが心配だったが「あきたこまち」を植えた。玉蔵さんがつくっていた「ゆめしなの」は種の確保が間に合わなかったからである。
 多くの仲間の手を借りて、区民農園として取り組んだ。だから「うちでとれたコメ」というのは正確ではない。代かきは農業委員の護さん、水の心配は家が近い正純さん、稲作の経験のある人が中心となった。田植えには、地域の子ども育成会の親子も参加して50人近く集まった。除草剤を使いたくないと言った手前、草取りは私の仕事となった。
 夏場、子山羊を連れ出して木陰に繋ぎ、鳥の声を聴きながら、回りに誰一人いない田んぼで過す時間はぜいたくなものだった。しかし、泥の中で足をとられながら前かがみの姿勢での作業は、想像以上に身体こたえた。田の草取りをしながら、戦前の小作制度の理不尽さを想った。こんな苦労をして、収穫の半分も地主に取られたら、たまらないと実感した。
 田んぼを借りに行ったとき、玉蔵さんは、参考にと、貯水池の水位を記録した5枚のコピーを手渡してくれた。5年分の折れ線グラフは、夏場の水の苦労を示していた。しかし、今年は水不足の心配もなく、思いのほか順調に育って収穫の時期をむかえた。
 8月末に、用事でしばらく留守にしていて家に戻ると、田んぼが大変なことになっているとの一報が入った。急いで行ってみると、収穫間際の稲が倒されている。イノシシの仕業だった。今までの苦労はなんだったのかと、やるせなさが募った。田んぼを快く貸してくれた玉蔵さんに申し訳ないと思った。
 あわてて田の水を抜き、人に頼んで獣道にワナも仕掛けた。イノシシの襲来は4日で止まった。ワナにはイノシシではなくカモシカがかかったが、逃がしてやったという。
 稲刈りとハザかけ、それに脱穀は、主だった区民農園のメンバーの男衆だけで済ませた。収量は、期待した半分にも満たなかった。12月を前に、倒れた稲と切り株が残る田んぼを、来年のために、もう一度耕起して、一年目のコメ作りの作業はすべて終了した。
 振り返れば気苦労ばかり多かった。今、そのコメを食べながら、苦労の味を噛みしめている。おいしくないわけがない。

片倉和人

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http://www.rircl.jp/ NPO法人 農と人とくらし研究センター