二つの雑誌(上) 創刊号

books PARC自由学校の「検証戦後史」のクラスが、2007年6月2日から3日にかけて京都で開かれた。受講生の一人として私は京都を訪れ、講師の中村尚司さんから『高瀬川を歩く』の創刊号を、鶴見俊輔さんから『朝鮮人』の終刊号をいただいた。いま手元に『高瀬川を歩くT−崇仁・東九条の歩み−』(龍谷大学、2001.3)と、『朝鮮人−大村収容所を廃止するために−』第27号(朝鮮人社、1991.5)が置かれている。
 「人々が出会う高瀬川」と題する、中村尚司さんの発刊に寄せての一文は次のように始まる。


 ヒトは誰でも、人間に出会って、はじめて人間になる。人間に出会うことのないヒトは、ただの哺乳類である。暮らしの豊かさは、出会った人間の豊かさで決まる。私の出会った人柄の豊かさが、人間として私が獲得できる豊かさの源泉である。
 その反対に、対等な人間として出会う道を閉ざす試みが、社会的な差別の出発点である。人間の営みを他の人間から断ち切る社会的な力が、部落であれ民族であれ、あらゆる差別の根源である。そのような試みは、差別される側だけでなく、差別する側の人間も貧しくする。
 『高瀬川を歩く』は、長年に及ぶ社会的な差別の力に逆らって、人が人に出会う場を語る。・・・この『高瀬川を歩く』では、ヒトが人間となって育ち、出会う場を提供したい。・・・

 中村さんの案内で、3日の日は一日かけて、受講生一行とともに高瀬川沿いに崇仁地区と東九条を歩き、電車で宇治市に移動してウトロ地区を訪れた。崇仁地区では柳原銀行記念資料館で「崇仁地区の文化遺産を守る会」の山内政夫さんが、ウトロ地区では「ウトロを守る会」の斎藤正樹さんが、休日にもかかわらず、私たちの案内と説明を買って出てくれた。今回この三つの地区に、私ははじめて足を踏み入れた。18歳から36歳まで18年間も京都に暮らしていたにもかかわらず、である。被差別部落も在日朝鮮人も、長く京都に暮らしていれば関わりが全くないことはない。しかし、当時の私は自分の視界にそうした問題を入れることはなかった。一緒に歩いた受講生の浅輪雅夫さんの言葉が耳に残る。「少数派というのは、多数派になることはなくても、社会にとって重要な存在なんですね。」

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表) 2007.6.6

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二つの雑誌(中) 終刊号

 2日の午後は、鶴見俊輔さんから話を聞いた。白内障の手術後で体調が心配されたが、鶴見さんは思ったより元気な様子で、「私が考える戦後の岐路」という与えられた題目にとらわれることなく、現代史の問題をたてるときには自分を含んでいることが大切であると言って、個人史を中心に語られ、最後は、用意してきたという雑誌『朝鮮人』の話で締めくくった。在日朝鮮人の強制送還の装置だった大村収容所が役割を終えたのは、残念ながら、市民運動の成果というより、必要がなくなったからで、韓国が豊かになり、収容される韓国・朝鮮人がいなくなったからだという。
 雑誌『朝鮮人』は、1969年7月「任錫均氏を支援する会」の機関紙として創刊された。創刊直後、内紛により会は解散し、第2号から故飯沼二郎さんが主催する個人誌となった。任氏は韓国で政治運動を行い、死刑の宣告を受けて日本に逃げてきた人で、会は日本政府が密入国者として彼を本国に強制送還するのを阻止するために結成された。当時、朝鮮人をめぐる日本人の市民運動はまだ皆無の時代で、この運動を通して、飯沼さんは「見えなかった人々が見えてきた」と述懐している。当時飯沼さんは今の私と同じ51歳、鶴見さんは47歳だった。ちなみに、西洋農業経済史に関する飯沼さんの講義を、私は大学生のときに受けた記憶がある。この雑誌に「大村収容所を廃止するために」という副題をつけることを提案したのは鶴見さんである。
 21年間続いた『朝鮮人』の終刊号で、「終刊の辞」を飯沼二郎さんは次のように結んでいる。


 はじめから私は、二〇号まで出すといいふらしていた。私には、もともと意志薄弱なところがあり、個人雑誌を出しても、おそらく二、三号で止めてしまうにちがいないと思われたので、そのような自分を縛る意味で二〇号まで出すといいふらしたのである。そして二〇号に達したとき、私はその「公約」に従って二〇号で廃刊にしようとした。しかし、実は、そのことが、大村収容所を廃止するという本当の「公約」からの違反であることに気づかなかった。
 その提案者である鶴見さんは、大村収容所が廃止されるまで出しつづけるということで、二一号以後の発行を引き受けられた。その生存中に廃止にならなければ、息子さんが発行をつづけるということであった。そして遂に今日、その廃止をみとどけて『朝鮮人』を廃刊ということになったのである。これこそ真に「公約」の履行であり、鶴見さんに較べて、自分の不誠実さを、いやというほど思い知らされている。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表) 2007.6.27

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二つの雑誌(下) 出会い

 中村さんの言葉を借りれば、私は中村さんと16年前にすでに出会っていたが、鶴見俊輔さんとは、今回はじめて出会うことができた。
 鶴見さんは「上野千鶴子が私の戦争責任を厳しく問い詰めたように、何を聞いてくれてもかまわない」と言って話を終えた。聴衆は20人強で、私が質問の口火を切った。
 京都に住んでいたときに何度か講演を聞いたこと、著作を読んでその思想に個人的にとても共鳴したこと、とくに、言うこと(思想)と実際にやること(行為)がかけ離れていない点が大切であることを学んだことを、まずお伝えした。そして、影響の一例として、戦争責任の取り方について、鶴見さんたちの「坊主の会」を真似して、15年間、8月になると丸坊主にしていた自分の体験を披露した。父が日本軍の兵士だったので、私にも何がしかの戦争責任があると感じていたからである。長い前置きをした後、「鶴見先生が他の戦後の日本の知識人と違って私に魅力的に見えたのは、今日のお話のなかで先生は自分の偏見としてUSAを信用していないと繰り返していたが、そのアメリカのプラグマティズムに由来しているのではないか。先生はご自身ではどう思っていますか」と問うた。
 鶴見さんは、しばし沈黙した後、「ありがとう」と一言いって、私の質問には直接答えず別のエピソードをいくつか披露された。以後、誰の質問に対しても、直答することなく、関連のありそうな話題や体験談を提供することを繰り返した。講演と質問は三時間に及んだ。会が終わって参加者の一人が私に、「鶴見さんはとても嬉しそうな顔をしていたから、あなたの発言は核心を突いていたのだと思う」と教えてくれた。残念ながら、私は鶴見さんの表情の変化に気づく余裕はなかった。
 鶴見さんは、戦後まもなくの著書『アメリカ哲学』の中で、プラグマティズムをあえて訳せば「行為主義」がいいと書いている。私は、鶴見さんが米国から学んだプラグマティズムの思想が戦後の「生活改善運動」のなかにも潜んでいたと思っている。それは米国が育んだ思想の中で最も良質なものである。もしその思想を、生活改善の脈絡の側に手繰り寄せることができるのなら、両者の関係を明らかにして後世に伝えたいと思う。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表) 2007.6.27

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いま流行りのカタカナの職業(前編)

 ワークショップのファシリテーター(進行役)を私は都合がつくかぎりいつも喜んで引き受けている。ワークショップの魅力が何かと問われれば、多くの人と出会うことができ、参加者から実にさまざまなことを学ぶことができるからと答える。
 2007年7月の第三土曜日、JICA東京のセミナールームで開かれた国際開発学会の「生活改善」部会でファシリテーターをつとめた。非学会員でも参加できる研究会で、生活改善に関心のある、国際開発にたずさわる若い人の参加が多い。第5回を数えるが、これまでの会合では若い人の発言が少なく、残念に思っていた。彼らの声が聞きたいというのが、発表者の役を引き受けた理由のひとつだった。国際開発に関わる人たちだけあって、若いけれど一種の自信というか、生きていくうえでのたくましさを身につけている人が多い、という印象を私はもっていた。"みんなで楽しく「生活改善」について考えてみよう" と題して、演劇的手法をつかったワークショップをおこなった。
 ワークショップが始まる前から、参加者のひとりが気にかかっていた。自分は場違いの場所にいる、とでもいうように若い男性が身を硬くしてひとりだけ浮いている。その姿をみて私には彼がいま何を感じているかわかる気がした。20代の頃の私自身の姿がそこにあったからである。居場所がない、肩身が狭いといった、ある種の生きづらさを体現していた。手作りの名札に他の参加者から呼ばれたい自分の名前とロゴマークを書いてもらったが、彼が描いた小さな絵は美しくて好感がもてた。
 お互い知り合うための準備のセッションで、他己紹介という手法を用いた。まず二人がペアになり、それぞれ自分について1分間半だけ自由に語ってもらう。次に自己紹介ではなく、聞いたことを、相手になったつもりになって一人称で紹介する。
 「いま流行りのカタカナの職業をやってます。フリーターというアレです。はじめはかっこいいと思ってたけど、いまはちょっとあせってます・・・」ペアになった元気のいい参加者が、彼にかわって皆に紹介した。そのとき隣に座っている彼の表情が一瞬ふっとゆるんだ。それを確認して、彼への気がかりは私の意識から消えた。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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いま流行りのカタカナの職業(後編)

 その日のワークショップのようすを簡単に記しておこう。参加者は20名、時間は正味2時間半。準備に1時間半をかけ、本題の芝居づくりは30分、発表とふりかえりに30分費やした。芝居づくりの作業は3つのチームにわけ、それぞれ、@問題の状況、A生活改善の取り組み、Bその結果(=新たな課題の発生)という3つのシーンからなる寸劇をつくってもらった。
 アジアを舞台にしたチームの寸劇は、@寄生虫が原因の症状が蔓延→A住民がトイレ設置を村長に訴えて建設→Bトイレが汚れてすぐに使われなくなる(=水道施設の必要)。アフリカチームは、@何キロも運ぶ水汲みの重労働→A井戸を掘って生活が楽になる→B井戸端が洗濯と家畜の水飲み場と化す(=井戸水の汚染)。中南米チームは、@布団を干さない習慣による病人の発生→A学校で教えられて家族が訴えても、家長が生活習慣を変える必要を認めない→B近隣で実行している家庭を訪問し、勇気をえて家長に逆らっても実行する。30分でつくった寸劇は5分ほどの長さで、自ら演じると同時に他のチームの芝居を観て楽しんでもらえたようだった。
 ふりかえりのセッションで、「いま流行りのカタカナの職業」の彼は、表現することの難しさを終始感じていた、と感想を語った。彼がこれから生きていくうえで、ワークショップの体験が少しでも役に立ってくれたらと願う。彼が参加してくれたおかげでこの日のワークショップは私にとって忘れがたいものとなった。もし彼が心から楽しんでくれたのなら、ワークショップは私にとって成功である。楽しんでくれただろうか。
ワークショップでのアクティビティのひとつ。
二人一組になり、相手の顔を見て、絶対に手元の紙を見ず、ペンは紙から離さないで一筆書きで描いた似顔絵。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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村の暮らしと女性たち(1)−バングラディシュの村から(その1)

 バングラデシュに通うようになってから20年近く経つが、いくつかの忘れられない光景や会話がある。
 モスレムさんは、私が滞在していた村の家の二軒隣に住むおじいさんだった。私はそのころ、アクションリサーチプログラムという農村開発のプロジェクトに入れてもらって、よくわからないままに、あたふたと日々を送っていた。
 モスレムさんは、もうおじいさんなので、軒先の部屋で過ごし、たいていは、軒下にしゃがんで景色をみたり、おしゃべりをして一日を過ごしていたと思う。赤ちゃんの子守くらいはしていたかもしれないが。私は、アクションリサーチにも、開発プログラムにも、たいして興味無さそうに、のんびりと過ごしているモスレムさんの佇まいにほっとすることが多く、ときどき、時間の合間をみては、何となく訪ねていって、おしゃべりをするでもなく一緒に時を過ごすことがあった。
 日本はどれくらい遠いんだ?というようなたわいもない話ばかりだったが、あるとき、モスレムさんの家族の話になった。モスレムさんは「いい子どもらに恵まれた」と言ったあとで、自分よりも早く亡くなった妻について「いいカミさんだった」としみじみとした顔で思い出すように語っていた、そのことが、今でもずっと忘れられない。
 その頃、"プロジェクトは、お前は村の"開発"、"発展"のために何ができるんだ?"という村の男たち女たちからの有言無言の圧力のなかで、大したアイディアも出せない私は、かなり追い詰められた気持ちになっていたと思う。しかし、モスレムさんは、それを全く超越したような面持ちで、日々を過ごしていた。

吉野馨子(農と人とくらし研究センター研究員)

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村の暮らしと女性たち(1)−バングラディシュの村から(その2)

 当事(90年代当初)、滞在先の家の家事をこまごま手伝ってくれていたタラという名前の女の子とプロジェクトのスタッフの娘でなぜだか私になついていたナズマというおませな女の子がいた。いずれも早々と(あちらでは順当な年齢に)結婚し、子どもを生んだ。年齢は私と15歳くらいは違うだろうが、子どもの年は、私の子らとあまり違わない。
hands 5歳の男の子の母となったタラは、嫁ぎ先で暴力に晒され、ときどき実家に戻ってくる。子どもが生まれた頃からだという。相性が悪いのか、どちらかに非があるのか、タラだけの話しを聞いただけではわからないが、彼女が言うには、「何しろ自分が気に入らないようで、ことあるごとに義理の姉たちがたたいたりする」と言う。夫も最近は、その姉たちに加勢するので、救いが無いらしい。彼女は、帰りたくない、と思いながらも、何日か実家にいて少し気が休まると、また夫の家に戻っていく。
   一方、ナズマは、村ではまだ少ない恋愛結婚をし、子どもをなしたのだが、妊娠中に夫がシンガポールに出稼ぎしてから、音信不通になってしまった。もともと恋愛結婚ということで、相手方の家族が同意していなかった。同じ村内なのだが、行き来もなくなっている。夫は、シンガポールからたまに帰省しているのではないか、と思われる節があるのだが、彼女の元には顔を見せない。子どもはまだ2歳。愛らしい顔で、父親の名前を問われるままに答えているが、いつ会えることだろう。

吉野馨子(農と人とくらし研究センター研究員)

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村の暮らしと女性たち(1)−バングラディシュの村から(その3)

 バングラデシュの女性にとって、男性の保護者がいない、という状態は、生活の不安定を意味する。実家に戻ってくるということは、父母が健在なときにはまだ良いが、兄弟以降の代になると、それぞれが結婚し、子どももできて、という状態で、どのような扱いをされるか、不安要素が大きい。娘らは、土地などの相続権を実質的にもたないし(法的には男きょうだいの半分の土地を相続する権利はあるが、それを放棄することによって、生家と良い関係を取り結んでおく)、自分で稼ぐ手立ても少ない。誰かに頼らずには暮らしていけないのである。そんなナズマに、嫁ぎ先で暴力をふるわれているタラが、「まだ私は良いよね。帰る家(婚家のこと)があるんだから」とつぶやく。
 長い人生の中、紆余曲折はあっただろうが、"良いカミさんだった"、と夫にしみじみと語られる人生。その一方で、婚家で暴力を受けたり、夫を失い安定した場所を持たない人生。どれも村の女の人生である。いずれにしろ、夫やその家族次第、というところに不安定の要素があるのは否めない。そう考えると、村の伝統や文化を尊重したいとは思いつつも、女性が女性として独り立ちできる選択肢があることの重要性を感じるのである。

 近年は、結婚婚資金(娘の結婚時に婿側に渡される金品のこと)に関する問題も大きくなってきている。これには、市場経済の浸透も影響している。結婚婚資金と村の暮らしについては、また別の機会で考えたい。

吉野馨子(農と人とくらし研究センター研究員)

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栗原幸夫さんへの手紙

 私は二十代のとき、自分が体験したことがない戦争やファシズムについて考える機会があり、戦後と戦中の間にはどうしても越えられない断絶があるのではないか、と感じてきました。沖縄戦や満蒙開拓団の集団自決の出来事を知ったとき、頭で理解するだけでは何か足りないのではないか。「生」に価値をおく戦後の私たちの世界からは、戦中の日本は「死」の共同体とでも呼ぶほかない、閉ざされた別の世界に見えるのではないか。戦争を潜り抜けた世代は、二つの世界に身をおき、一身にして二生を生きているのではないか、そう考えてきました。
 そのとき以来、私は戦争の時代を体験した父親に聞いてみたいことがありました。半年だけ軍隊にいたことのある父は、人を殺したことがあるだろうかと。でも、それを聞けないまま三十年近くたちました。幸いにも、父は八十四歳でまだ健在です。
 2009年11月16日PARCの戦後史自主クラスにおいて、栗原さんは、たぶん私の発言を意識して、経験と体験は違うとおっしゃってくれたのだと思います。体験は個人的・直接肉体的なものだが、経験は他人に伝えられるように継承化・論理化されたもので、だから、体験がなくても想像力があれば経験することはできるのだと。
 その後、ブログに掲載していただいた「彼方からの手紙」を読み、坂口安吾の天皇制論を知り、その卓抜さに目が開かれました。私はきっとこの理解を一生忘れることはないと思います。続いて「惰性化した日常の外へ」も読みました。池田浩士の歴史に向き合う姿勢について述べている箇所で、次の文章に出会いました。
 ナチズムとか「大東亜戦争」のような出来事を、その結果が誰の目にも明らかになった後から批判し否定するのは容易だが、「われわれにとって重要なのは、そのような『事後の視線』から過去の出来事を断罪することではない。わたしたちは検事や裁判官のように『裁く者』ではないのだ。むしろ歴史の共犯者としての被告あるいは被告になりうる者なのである。・・・被告だけが生活者であり行動する者なのだ。・・・被告だけが自分の行為の責任を問われる資格を持っている。」
 父に対して口に出してどうしても問う気になれなかった理由が、この文章を読んで分かりました。「人を殺すことは、いけないことだ」という戦後の価値観から断罪しているようで、気が引けたのです。そして同時に、この文章を読んで、全く別な気分に自分がなっているのに気づきました。すぐに父に向かって、口を開きました。「戦争は殺し合いだけど、オヤジさんは軍隊にいたとき、人を殺さなければならない、ということがあったのか」と。なんのためらいもなく直截に聞くことができました。三十年の自縛が解けた瞬間でした。私には、私もまた「歴史の共犯者としての被告あるいは被告になりうる者」なのだ、という想像力が欠けていたのです。答えは、私が予期していた通りのものでした。お礼を一言いいたくて、筆を取りました。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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坑口をひらく(前編)

 「筑豊の中の闇を根拠地に」という副題がついた旅に参加して、はじめて北九州・筑豊炭鉱の地を訪れた。2009年10月の3日間、横川輝雄さんの案内によりバスで炭鉱跡をみてまわった。横川さんは筑豊で24年間地理を教えていた元高校教師である。車窓から、まわりに水田をたずさえてゆったりと流れる遠賀川がみえる。のどかな風景をみて、かつて修学旅行で訪れた飛鳥の地を思いだした。国のまほろばの趣を呈している。
 しかし、遠賀川の水は真っ黒で、その川の中で遊んだと、子どものころを振りかえって韓国籍の李京植さんは語った。李さんは昭和16年の太平洋戦争の開始後に父母と兄とともに慶尚北道から3歳で海を渡ってきた。話を聞かなければ、全く想像できなかった。地下採掘は地表陥没などの鉱害をもたらし、炭鉱は農業にも大きなダメージを与えた。今の田畑は、復旧工事を経て取り戻された姿なのだろう。農民から炭鉱労働者になった人も少なくないと思うが、炭鉱夫を差別したのは主にその土地の農業にたずさわる人たちだったという。
 石炭から石油への転換により、最盛期に300を数えた筑豊の炭坑は相次いで閉山した。「エネルギー革命」の名のもと、政策として炭鉱はつぶされたのだ。ガスや水が出て危険だからと、通産省は、坑口から70m埋め戻すことを義務付けたという。その時から、すでに半世紀がたつ。炭鉱の跡地は今は原野に戻ったり、住宅地に変わっていて、かつてそこに炭鉱があったことさえ容易にうかがえない。かつての地名が、バス停の名前にしか残っていない所もあった。ボタ山も緑に覆われ、教えてもらわないとそれと気づかない。わずかに残る炭住や炭鉱の痕跡を訪ねてまわった。炭鉱の跡地や公園の片隅に人知れず碑がたっている。炭鉱跡をまわるツアーは、さながら慰霊碑をめぐる巡礼の旅のようだった。
 昭和35年、豪雨で川底が抜け坑道に水が入り67名が水没。遺体が今も1900mの地底に眠る上尊鉱業豊州炭鉱の「慰霊碑」。台風で倒れて伐採された切り株の横に「朝鮮民主主義人民共和国帰国者記念樹」と刻まれた小さな石碑。1959年12月、古河鉱業大峰炭鉱に強制連行された人たちが、帰国事業で北朝鮮へ帰る際に日本に残る同胞のために朝日友好親善を願って役場の前に植樹した。旧三井鉱山田川伊田坑跡の石炭記念公園内には、3つの碑が建っている。日本に徴用・強制連行され、二度と故国の地を踏むことなく逝った同胞を悼む「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」。15年戦争末期、強制連行され炭鉱で亡くなった「強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑」。その隣に「田川地区 炭鉱殉職者慰霊之碑」。
 昭和20年9月17日、敗戦直後に襲った枕崎台風。その日、停電の坑内に電気のスイッチを切るために入った朝鮮人少年が昇降せず、心配して相次いで入坑した日本人も戻らなかった「真岡炭鉱第三抗 殉職者慰霊之碑」。昭和56年の建立時に不詳だった少年の名が判明し、3人の日本人名の横に今年(2009年)新たに刻まれた。姜相求という強制連行された韓国人の少年だった。大正3年に起きた日本最大の炭鉱事故。ガス爆発では消火のため坑内に水を入れる。死者667人。その数はカンテラの数で推定、実際はもっと多いはずという三菱鉱業「方城炭坑罹災者招魂之碑」。その隣に、昭和7年に従業員たちが建てた子供を抱く「観世音菩薩」像。先山、後山として夫婦で作業していた犠牲者も多く、孤児70人を数えたという。
 昭和45年の閉山までに520人の犠牲者を出したと印される平成6年建立の明治鉱業「赤池炭鉱殉職者鎮魂碑」。先の大戦で日本の捕虜となり、この地で亡くなった連合軍捕虜をまつった「十字架の塔」。日本炭鉱が連合軍の戦犯調査委員到着前に慌てて造った塔で、日炭高松炭鉱にはオランダ人800人、イギリス人250人、アメリカ人70人が送られてきたという。1987年に公民館前に再建された「謝恩碑」と「俵口和一郎頌徳碑」。昭和10年、露天掘りが終わるのを機に、貝島大之浦炭鉱の朝鮮人労働者たちが会社の待遇に感謝して建立したとされる。坑長個人を称えるなら、会社側にも建てろ、との圧力があったのだろう。彼らの心の内を想えば、この碑もまた、謝恩碑というより、慰霊碑にみえる。大之浦炭鉱があった町はずれの谷合にたつ炭鉱犠牲者「復権の塔」。塔の完成に奔放したという牧師の服部団次郎さんは、筑豊は本土の中の沖縄であり、この塔は沖縄のひめゆりの塔と対に思える、と書いている。炭坑施設が跡形もなく消える中、消防所裏に移転された狛犬の台座に刻まれている明治鉱業「平山鉱業所職員労務員一同」の文字。ガス探知のために坑内で命を絶った小鳥たちを供養する「小鳥塚」。
 多くの慰霊碑の前に立った。炭坑事故で亡くなった日本人、朝鮮人、中国人、連合軍捕虜たち。差別は炭鉱にも及んだ。被差別部落の出身者は大手の炭鉱では雇ってもらえず、より条件の悪い中小の炭鉱での労働を強いられ、また立場の弱い部落の地に坑口が築かれたという。だが、反面、炭鉱労働者には、過去を問わないルールがあり、お互い分け合い助け合うという一面もあった。地上では喧嘩をしても、地下では死をともにする仲だったからだ。
 ほとんどすべての坑口は埋め戻されている。しかし、今でも目にすることができる坑口が、かろうじて1本だけ民家の庭の片隅に残っていた。地下水を利用するという目的で、許可を得て家族が総出で排気坑を掘り返したのだという。その坑口から斜坑を数メートル下ると、すぐそこまで水がついていた。横川さんは問いかける。炭鉱の闇を想像してみてください。星明りすら届かない本当の闇がどんなものかを。


(左:坑夫 右:坑口)

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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坑口をひらく(後編)

 PARC(アジア太平洋資料センター)の小池菜採さんが企画したこのツアーに私が参加したのは、若かりし日に影響を受けた谷川雁が大正行動隊と闘争を組んだ地を一度みておきたかったからである。森崎和江著『闘いとエロス』を1冊だけ鞄に入れて出かけた。現地集合は飯塚だったが、少し早めに筑豊入りし、大正炭鉱があった中間市に途中下車した。ひとりでふらっと立ち寄っただけでは、どこに炭鉱があったのかすらわからない。とりあえず歴史民俗資料館を覗いてみた。大正鉱業中鶴炭坑の簡単な説明とともに、坑内で使われた道具類と石炭が展示されていた。石炭を見るのは久しぶりだった。小学校の教室の、だるまストーブで燃える石炭の匂いを思い出した。炭鉱の闇を凝縮しているかのように、石炭は黒光りしていた。
 ツアーの案内役の横川輝雄さんは69歳。大学生のとき、新聞部員として、大正炭鉱の炭住に一緒に生活していた森崎和江さんと谷川雁を訪ね、原稿を依頼したことがあるという。そこで、売血で飢えをしのぎ、ぶよぶよに朽ちた畳の炭住にくらす失業者を目の当たりにした。高校教師になってしばらくしてから自ら志すようにして筑豊に赴任した。修学旅行に行っても、どこから来たと聞かれ、筑豊だと率直に明かせない子どもたち。筑豊の、田川の、炭鉱にしっかりと眼を向ける教育に力を注いだ。死ぬまで付き合いがあったという上野英信の志を継いでいた。上野をして筆をとらしめたもの、それは「むなしく朽ちはててゆく坑夫たちの歯をくいしばった沈黙であり、・・・組織されずにたおれてゆく坑夫たちのにぎりしめた拳である。危機の波にのって石炭産業は退いてゆく。しかし、坑夫たちはその無限の深みの底にいる。そこへもぐり、彼らの眼をもたぬ魚のような魂のなかに入ってゆかねばならぬ。」(『追われゆく抗夫たち』1960年、岩波新書)
 旅の終わりに、お世話になった横川さんに、参加者が一人ひとり感想を述べる機会があった。「炭坑夫の誇りを取り戻すために、もう一度石炭を掘ることはできないのだろうか」と私は自問の言葉を口にした。石炭産業と同じように、かつて一時代を画した蚕糸業の跡地に私は暮らしている。かつて300を数えた製糸工場は、1工場のみ今も奇跡的に糸を繰っている。しかし、養蚕は、岡谷で最後の農家が蚕を飼うのをやめて25年がたつ。なんとか養蚕を復活できないかと、ちょうど考えていたので、石炭の場合はどうなんだろうとの思いつきからだった。
 横川さんは、感心してくれたのか、「50年もほったらかしで再興は難しいが、炭鉱をもう一度興してみよう」と答えてくださった。筑豊のヤマが相次いで閉山してすでに半世紀がたつ。炭鉱と養蚕とでは復活の困難さの違いは歴然である。大それたことを口にしてしまったと自分の軽率さを後悔した。
 旅から帰って、水也(みずや)という名の叔父のことを母にたずねた。たしか母の次兄は炭鉱で亡くなったと聞いていたからである。「みずにい」は終戦後まもなく仕事がなくて常磐炭田に働きに行き若くして亡くなったと、封印された記憶の底からしぼり出すように母は語った。落盤事故での圧死だった。もう少ししたら景気も良くなったから炭鉱に働きに行くこともなかったのに、と悔やんだ。次兄に続き、4歳のとき死別した母親のことを語り、母親代わりだった姉も相次いで結核で亡くしたことに及んで、言葉に詰まって絶句した。埋め戻された坑口がこじ開けられ、半世紀の時を経て現れた暗闇をみつめかえすような目をしていた。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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武井秀喜さんと父

 脳梗塞で左半身不随となり入院している父の病室に、ずっしりと重いジュースの瓶が三本置かれていた。りんごジュースが2本と、りんごより少し透きとおった色のマルメロのジュース1本である。話すことにはほとんど支障のない父が、「武井さんが見舞いに持って来てくれた」と告げた。一人で来てくれたのかと聞くと、そうだと言う。「こんな俺の姿を見て、切なそうだった。俺の方が先にくたばってしまって」と父は寂しそうに言った。仰向けになったゾウのようにベッドに横たわる父を、小柄で身軽な武井さんが困惑した顔でながめている情景が浮かんだ。戦死した6歳違いの父の兄と、武井さんは同い年で、父は武井さんを兄のように慕っていた。父は85歳、武井さんはたしか92歳になるはずだ。
 武井秀喜さんの家は、岡谷では数少なくなったが、今なお現役の果樹農家である。父は頻繁に武井さんの農園を訪れて、家族のために、あるいは知人への贈答用に、ぶどうやりんごを購入して届けた。つい先日も、山羊の餌にと、はねだしのリンゴをもらってきてくれたばかりだった。
 私が郷里に帰って間もない春、父と武井さんの農園に行き、ぶどう(ナイアガラ)の樹2本と、プルーンの若木1本をもらってきた。道路の拡張でつぶれるという果樹園の一画から、武井さんは、この時期なら根づくかもしれないと言って、一番細い樹を選んだ。いずれも一握りほどの太さだった。武井さんは3本をあっという間にスコップで掘り起こして渡してくれた。身のこなしが若々しくて年齢を感じさせなかった。少年のように苦もなく木に登れるのではないかという印象をもった。家の庭に植えたぶどうはその年から実をつけた。プルーンも大きくなったから今年あたりから実をつけるかもしれない。
 脳腫瘍の手術を受けてから体調がすぐれず床につくことが多い母は、武井さんの話題となるとその健康にあやかって「爪の垢を煎じて飲みたい」というのが口癖である。そういう父や母と接していて、高齢になっても働き続けることができるのなら、それが一番の幸せだと思うようになった。農作業を続けていれば、武井さんのようにいつまでも元気でいられるのではないかという気がしている。
 父も、糀と味噌づくりの家業を細々と続け、1月の下旬に倒れるまで現役で働いていた。空いている桶を気にかけて、2月の半ばには糀をさして味噌の仕込みを始めるつもりで、すでに大豆とコメも調達していた。さすがにもう作業場に立つことは無理である。今年の仕込みはどうするのか、手が必要なら手伝ってもいいと心配してくれる近所の方がいる。父に代わって、仕込みをする算段をしなければならなくなった。

片倉和人(農と人とくらし研究センター代表)

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http://www.rircl.jp/ NPO法人 農と人とくらし研究センター